詩の擁護又は何故小説はつまらないか 谷川俊太郎
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小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で 抜け穴を掘らせようとする だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、 子どものころ住んでいた路地の奥さ |
そこにのほほんと詩が立ってるってわけ 柿の木なんぞといっしょに ごめんね ーーと引用したところだが、中也にも柿の木があるね |
三歳の記憶 中原中也 縁側に陽があたつてて、 樹脂が五彩に眠る時、 柿の木いつぽんある中庭は、 土は枇杷いろ 蝿が唸く。 でも柿の木、つまり「子どものころ住んでいた路地の奥」があるのは詩だけじゃないさ。例えば谷崎の「廊下のすべすべした板」も吉行の「足裏の下の畳」も同様。 |
要は下駄を脱ぎ捨てて足袋の底に冷めたい廊下のすべすべした板を蹈んだとき、一瞬間遠い昔の母のおもかげが心をかすめた。蔵前の家から俥の上を母の膝に乗せられて木挽町へ行った五つか六つの頃、茶屋から母に手を曳かれて福草履を突っかけながら、歌舞伎座の廊下へ上るときがちょうどこんな工合であった。(谷崎潤一郎『蓼食う虫』) |
長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。
立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年) |
要するに、《幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ[die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben]》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)だね。
あるいは、《人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている[Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.]》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)だな。
僕は高校時代、「哲学者」森有正の次の文にひどくイカれたんだが、これも今思えば、「子どものころ住んでいた路地の奥」に関わるのかも。
一つの生涯というものは、その過程を営む生命の稚い日に、すでにその本質において、残るところなく、露われているのではないだろうか。僕は現在を反省し、また幼年時代を回顧するとき、そう信じざるをえない。この確からしい事柄は、「悲痛」であると同時に、限りなく「慰め」に充ちている。君はこのことをどう考えるだろうか。ヨーロッパの精神が、その行き尽くしたはてに、いつもそこに立ちかえる、ギリシアの神話や旧約聖書の中では、神殿の巫女たちや予言者たちが、将来栄光をうけたり、悲劇的な運命を辿ったりする人々について、予言をしていることを君も知っていることと思う。稚い生命の中に、ある本質的な意味で、すでにその人の生涯全部が含まれ、さらに顕わされてさえいるのでないとしたら、どうしてこういうことが可能だったのだろうか。またそれが古い記録を綴った人々の心をなぜ惹いたのだろうか。社会における地位やそれを支配する掟、それらへの不可避の配慮、家庭、恋愛、交友、それらから醸し出される曲折した経緯、そのほか様々なことで、この運命は覆われている。しかしそのことはやがて、秘かに、あるいは明らかに、露われるだろう。いな露われざるをえないだろう。そして人はその人自身の死を死ぬことができるだろう。またその時、人は死を恐れない。〔・・・〕 |
考えてみると、僕はもう三十年も前から旅に出ていたようだ。僕が十三の時、父が死んで東京の西郊にある墓地に葬られた。二月の曇った寒い日だった。墓石には「 M家の墓」と刻んであって、その下にある石の室に骨壷を入れるようになっている。その頃はまだ現在のように木が茂っていなかった。僕は、一週間ほどして、もう一度一人でそこに行った。人影もなく、鳥の鳴く声もきこえてこなかった。僕は墓の土を見ながら、僕もいつかはかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いて行こうと思った。その日からもう三十年、僕は歩いて来た。それをふりかえると、フランス文学をやったことも、今こうして遠く異郷に来てしまったことも、その長い道のりの部分として、あそこから出て、あそこに還ってゆく道のりの途上の出来ごととして、同じ色の中に融けこんでしまうようだ。 たくさんの問題を背負って僕は旅に立つ。この旅は、本当に、いつ果てるともしれない。ただ僕は、稚い日から、僕の中に露われていたであろう僕自身の運命に、自分自ら撞着し、そこに深く立つ日まで、止まらないだろう。(森有正『バビロンの流れのほとりにて』) |