深く頭を下げお詫びをしたんだな、NHKは。
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でもたんに深く頭を下げお詫びされてもね、
既視感なんてのを通り過ぎている。常にこれなんだ、日本文化というのは。
日本文化の中では、原則として、過去は殊に不都合な過去は―、「水に流す」ことが出来ると同時に未来を思い患う必要はない。「明日は明日の風が吹く」 地震は起こるだろうし、バブル経済ははじけるだろう。明日がどうなろうと、建物の安全基準をごまかして今カネをもうけ、不良債権を積み上げて今商売を盛んにする。もし建物の危険がばれ、不良債権が回収できなくなれば、その時時点で、深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする。要するに未来を考えずに現在の利益をめざして動き、失敗すれば水に流すか、少なくとも流そうと努力する。その努力の内容は、「誠心誠意」すなわち「心の問題」であり、行為が社会にどういう結果を及ぼしたか(結果責任)よりも、当事者がどういう意図をもって行動したか(意図の善悪)が話の中心になるだろう。文化的伝統は決して亡びていない。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
《深く頭を下げ、「世間をお騒がせ」したことを、「誠心誠意」おわびする》ーー、で、これだけで許しちゃうんだよな、共感の共同体の日本国民は。 |
ここに現出するのは典型的な「共感の共同体」の姿である。この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したりその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。そのような「事を荒立てる」ことは国民共同体が、和の精神によって維持されているどころか、じつは、抗争と対立の場であるという「本当のこと」を、図らずも示してしまうからである。…(この)共感の共同体では人々は「仲よし同士」の慰安感を維持することが全てに優先しているかのように見えるのである。(酒井直樹「「無責任の体系」三たび」2011年『現代思想 東日本大震災』所収) |
繰り返される出来事だね、 冒頭のワクチン被害者遺族の会の鵜川和久氏が《何故か腑に落ちないのは私だけだろうか?》と言っているのは、結局、この共感の共同体日本に対する無力感に収斂するんじゃないか。 ごく当然あるべき次の方向にはいかないんよ |
で、どうしたってメゲ感が生じるんだよな。
これはワクチンだけの話ではない、この今ならウクライナにおけるロシアとNATOの代理戦争についても同じだ。《本来この問題を語るべき人文学者》までもがムッツリを決め込んで権力の道具になっている。
《大勢がなさざるの共犯者》(中井久夫)なんだ。 |
けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年) |
自分には政治のことはよくわからないと公言しつつ、ほとんど無意識のうちに政治的な役割を演じてしまう人間をいやというほど目にしている…。学問に、あるいは芸術に専念して政治からは顔をそむけるふりをしながら彼らが演じてしまう悪質の政治的役割がどんなものかを、あえてここで列挙しようとは思わぬが……。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年) |
ホントに萎えるんだよ、きみらの振舞いを見ていると。