いやいやシツレイ、ついうっかりと「恥ずかしく死にそうになる」なんて書いちまったが、キミたちにはまったく通用しない言葉であるのは知らないわけではないよ。
僕も世代的には学園紛争後に学んだ世代だけどさ、1976年に大学入ってるわけで。
「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。〔・・・〕 精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。〔・・・〕「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収) |
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父の蒸発 [évaporation du père] (ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年) |
エディプスの失墜[ déclin de l'Œdipe](ラカン, S18, 16 Juin 1971) |
つまり恥なき世代だよ、僕も。 |
もはやどんな恥もない[ Il n'y a plus de honte] …下品であればあるほど巧くいくよ[ plus vous serez ignoble mieux ça ira] (Lacan, S17, 17 Juin 1970) |
文化は恥の設置に結びついている[la civilisation a partie liée avec l'instauration de la honte.]〔・・・〕ラカンが『精神分析の裏面』(1970年)の最後の講義で述べた「もはや恥はない」という診断。これは次のように翻案できる。私たちは、恥を運ぶものとしての大他者の眼差しの消失の時代にあると[au diagnostic de Lacan qui figure dans cette dernière leçon du Séminaire de L'envers : «Il n'y a plus de honte». Cela se traduit par ceci : nous sommes à l'époque d'une éclipse du regard de l'Autre comme porteur de la honte.](J.-A. MILLER, Note sur la honte, 2003年) |
とはいえ1990年までは曲がりなりにも「マルクスの父」が生きていて、恥を教えてくれていたのだよ、つまり「マルクスの眼差し」があったんだ。でもきみらはそれさえ蒸発しちまった真の下品な世代だからな。ムダなこと書いちまったね、きみらに「おい、恥を感じないのか」なんて。
なんたって1990年以降の世代は新自由主義の世代だからな[参照]。 |
それほど昔のことではない、支配的ナラティヴは少なくとも四種類の言説のあいだの相互作用を基盤としていたのは。それは、政治的言説・宗教的言説・経済的言説・文化的言説であり、その中でも政治的言説と宗教的言説の相が最も重要だった。現在、これらは殆ど消滅してしまった。政治家はお笑い芸人のネタである。宗教は性的虐待や自爆テロのイメージを呼び起こす。文化に関しては、人はみな芸術家となった。唯一残っている支配的言説は経済的言説である[There is only one dominant discourse still standing, namely the economic]。 われわれは新自由主義社会に生きている。そこでは全世界がひとつの大きな市場であり、すべてが生産物となる。さらにこの社会はいわゆる実力主義に結びついている。人はみな自分の成功と失敗に責任がある。独力で出世するという神話。あなたが成功したら自分自身に感謝し、失敗したら自分自身を責める。そして最も重要な規範は、利益・マネーである。何をするにもカネをもたらさねばならない。これが新自由主義社会のメッセージである。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Higher education in times of neoliberalism, November 2015) |