初めて見るんだが、動画というのは生々しいね、写真と違って。
芥川は佐藤春夫の前でこんな風に煙草をふかし続けて喋り続けたんだろう。
今年の一月中旬であつた。或る夕刻、飄然と僕を訪れた彼は、その日の午後五時半から、翌日の午前三時近くまで僕の家に居た。十年間の交遊の間で僕が最も密接に彼に觸れ得たのはこの一夜であつた。彼は彼として出來るだけ裸體に近くなつて彼の生涯と藝術とについて僕に語つた。(佐藤春夫『芥川龍之介を哭す』初出:「中央公論 第九号」1927(昭和2)年9月1日発行) |
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「若し僕が死んだならば、覚えて置いてくれ給へ、誄を書くのは君なのだからね」 自分はそれに対して出来るだけ正直に自分は彼の芸術を悉く賛成することは出来ないし充分なものとは思はないけれども彼が芸術に注いだ熱情とまた何事を為さうとしたかと云ふ意向とは充分に之を了解する積りだと答へると、彼はそれで満足すると云つた。冬の夜は更けて行つて自分たちとして勢一杯な程度で感傷的になつてゐた。 |
彼は非常に盛に煙草を吹かし大きな火鉢のぐるりには吸殻が林立し気が付いて見ると部屋には煙が立籠め、障子を隙けて置いた位では間に合はなかつた。煙草の箱は何度もすぐに空になつて了つた。どんなに少く見積つてもその一晩中に彼は九十本以上は吸つてゐる。自分も煙草は休みなくふかす方だが、彼のは余りに極端で、どうしても健康上有害だと思つたから自分は忠告をしたが、彼は、 「そんなことはどちらでも同じだ」と多少捨て身のやうなことを云つた。(佐藤春夫『芥川龍之介を憶ふ』初出:「改造 第十卷第七號」1928(昭和3)年7月1日発行) |
芥川は、 佐藤春夫に 「僕の生涯を不幸にしたものは××なのだよ。もっともこの人は僕の無二の恩人なんだがね」(『是亦生涯』改造昭和二年九月)と語ったそうだ。
彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の緩い為に妙に傾いた二階だつた。 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら。 (芥川龍之介『或阿呆の一生』昭和二年六月、遺稿) |
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僕等人間は一事件の為に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の総決算の為に自殺するのである。〔・・・〕 僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかつたのである。僕はこの養父母に対する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出来なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。 (芥川龍之介「遺書」) |
【芥川龍之介略年譜】より |
………………
彼は彼の先輩と一しよに或カツフエの卓子に向ひ、絶えず巻煙草をふかしてゐた。彼は余り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。 「けふは半日自動車に乗つてゐた。」 「何か用があつたのですか?」 彼の先輩は頬杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。 「何、唯乗つてゐたかつたから。」 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歓びも感じた。 そのカツフエは極小さかつた。しかしパンの神の額の下には赭い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。 (芥川龍之介『或阿呆の一生』「五」、昭和二年六月、遺稿) |
芥川龍之介(1892年〈明治25年〉3月1日 - 1927年〈昭和2年〉7月24日) 谷崎潤一郎(1886年〈明治19年〉7月24日 - 1965年〈昭和40年〉7月30日) |
彼はデイヴアンを読み了り、恐しい感動の静まつた後、しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を軽蔑せずにはゐられなかつた。 『或阿呆の一生』四十五 |
彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。『或阿呆の一生』四十六 |
彼は結婚した翌日に「来匇々無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑びを言つてゐた。彼の為に買つて来た黄水仙の鉢を前にしたまま。……『或阿呆の一生』十四 |
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