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2023年6月18日日曜日

教育と洗脳

 

前回の主流言説に洗脳され切った連中をめぐる記事を記していて思い出したね、ポール・バーハウの教育と洗脳をめぐる記述を。


教育は常に、シニフィアンを送り届ける過程、つまり教師から生徒へと、知を受け渡す過程である。この受け渡しは、陽性転移があるという条件の下でのみ効果的である。人は愛する場所で学ぶ。

これは完全にフロイト派のタームで理解できる。主体は大他者のシニフィアンに自らを同一化する。すなわち、この大他者に陽性転移した条件の下に、この大他者によって与えられた知に同一化する。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility. 2011年)

コミュニケーションとしての言語の機能。この機能で重要なのは、メッセージというよりも、むしろ送り手と受け手の関係である。この関係によって、メッセージがどのように受け取られるか、あるいは受け取られないかが決まり、より具体的には、メッセージが「取り込まれ」、保持されるか、あるいは送り手の外に戻されるかが決まる。

教育はこの典型的な例である。人は「学ぶ」、つまり、肯定的な伝達関係においてシニフィアンを取り込むのである。これは、実際に教えられることの正確さや不正確さよりも、はるかに決定的な重要性を持っている。その結果、すべての教育は、洗脳の機会となる危険性をはらんでいる[all education runs the risk of turning into an opportunity for indoctrination.](Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders, 2004)



大他者にしっかり陽性転移をして、すなおに知を取り入れるのは効率がいいのは間違いない。いわゆる優等生にはこのタイプが多い。だがこのまま大他者から受け渡された知を信じ込んで人生を歩めば、洗脳の主体としての「善人」で終わる、ーー《善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。》(坂口安吾『続堕落論』1946年)



もっとも、ヒト族はもともと洗脳の歴史の主体だと言い方もできる。

最初は、つまり出生後の母子二者関係において、母は母乳を授けたり幼児の身体から湧き起こる不快をなだめるために、子供の身体の上に刻印をする。幼児側からいえば、母を取り入れる。この取り入れ[Introjektion]をフロイトは、前エディプス期における母との同一化[Mutteridentifizierung]、あるいは母への固着[Fixierung an die Mutter]と言った。これは洗脳というより「洗躰」というべきかも知れないが、世話役としての母(ときに母の代役としての子守り)に間違いなく支配される。ラカンはこの母を全能の原大他者[l'omnipotence dans l'Autre primitif]と言ったり、母なる超自我[surmoi maternel]とした(もともとフロイトにおいても原超自我は母だが)。


次に母子二者関係に介入する第三者が現れる。通常は父だが、場合によっては祖母祖父などでもよい。この第三者が父への同一化[Vateridentifizierung]としての父の名の大他者だが、女としての祖母や姉でも父の名の機能を果たす。一般的には、原大他者としての母は「身体の大他者」、二番目の大他者は「言語の大他者」として、ラカン派において形式化されている。後者の父の名としての大他者からは、子供は厳密に洗脳を受ける(もっとも倒錯者は母との同一化にとどまり、父なる大他者を馬鹿にする性癖をもつ傾向がある)。


その後、この言語の大他者の役割を引き継ぐのが、教師であったり書物であったりする。学ぶことは、言語の大他者を取り入れことであり、間違いなく洗脳だ。大学に入って、場合によってはガチガチに洗脳され、それをそのまま引き摺りつつ大学教師になる連中が出てくるが、ある意味で、学生に最も強力な洗脳を授ける者が大学教師だとさえ言える。この内実はラカンの大学人の言説に現れており、ドクマを隠蔽しつつ中立を装った教師は生徒に知識を授けるという図式だ。





ラカンの大学人の言説は、教育機関としての大学に限らず、実際は「知の言説」だ。通常の知の受け手は、知を授けられた後にその知に疑いを持つようになり、右下の分裂した主体$となり、教師に問い続けたり、新しい教師=知を探し求める。こういった循環運動の形を示しているのが上図だ。


だが素直な「仔羊」は、ドグマを植え付けられたまま人生を送る。




ーーこれが善人の言説図だな、ラカンの言説は社会的結びつき[lien social]を意味し、つまりは善人の社会的結びつき図だ。


で、どうだい、ひょっとして日本はこの素直な仔羊タイプがとっても多いんじゃないかね、つまり末人タイプが? ーー《人類を去勢して、あわれむべき宦官の状態に引き下げること……この意味で、ツァラトゥストラは、善人たちを、あるいは「末人」と呼び、あるいは「終末の開始」と呼ぶのである。》(ニーチェ『この人を見よ』)