かつての「左翼」が老齢になって自分自身に閉じ籠るようになるのはある意味でやむ得ないだろうよ。特にヤマイを抱えていたらなおさらだ。歯痛だってそうなるのだから。
我思う、ゆえに我ありは、歯痛を見くびる知識人の言い草である。我感ず、ゆえに我ありは、もっとずっと一般的な効力があり、どんな生物にもかかわる真理である。私の自我は、本質的には思考によってあなたの自我と区別されるのではない。ひと多けれど、想念少なし。われわれは誰しも想念をたがいに伝達しあったり、借用しあったり、盗みあったりしながらほぼ同じことを考えている。しかし、もし誰かが私の足を踏んづけても、苦痛を感じるのは私ひとりだ。自我の根拠は思考ではなく、もっとも基本的な感情である苦しみである。(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」) |
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このクンデラのフロイト版ならこうだ。
器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。 このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.] |
W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年) |
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僕もそろそろ自極と対象極がかなり近づいてきたからな、サルトル曰くの「小さな庭」に思いを馳せることに専念すべき時期かもな。
79歳の金子光晴の心境ほどには自他極の接近はしてないけどさ。 |
この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。(金子光晴、79歳 死の前年(吉行淳之介対談集『やわらかい話』より) |
ところで僕の趣味からすると、中井久夫=安永浩のファントム空間図の左端「誕生」は「子宮内生活」、右端「死」は「母なる大地」あるいは「沈黙の死の女神」に置き換えたいところだね。
不安は対象の喪失への反応として現れる。…最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, (…) daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand](フロイト『制止、症状、不安』第8章) |
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不安は乳児の心的な寄る辺なさ[psychischen Hilflosigkeit des Säuglings]の産物である。この心的寄る辺なさは乳児の生物学的な寄る辺なさの自然な相同物である。 |
出産不安も乳児の不安も、ともに母からの分離を条件とするという、顕著な一致点については、なんら心理学的な解釈を要しない。 これは生物学的にきわめて簡単に説明しうる。すなわち母自身の身体器官が、原初に胎児の要求のすべてを満たしたように、出生後も、部分的に他の手段でこれを継続するという事実である。 |
出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである[Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt. ] 心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっているのである[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊する女 [Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。 |
すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。 そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年) |
究極の幼児期回帰は母胎回帰以外の何ものでもないからな、 |
出産行為をはっきりした切れ目と考えるよりも、子宮内生活と原幼児期のあいだには連続性があると考えるべきである[Intrauterinleben und erste Kindheit sind weit mehr ein Kontinuum, als uns die auffällige Caesur des Geburtsaktes glauben läßt]。 心理的な意味での母という対象は、子供の生物的な胎内状況の代理になっている[Das psychische Mutterobjekt ersetzt dem Kinde die biologische Fötalsituation. ]。(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…) eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年) |
死の欲動ってのは、結局、このことだよ。 |
生の目標は死である[Das Ziel alles Lebens ist der Tod] 〔・・・〕有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった[der Organismus nur auf seine Weise sterben will; auch diese Lebenswächter sind ursprünglich Trabanten des Todes gewesen. ](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
ラカンの穴は結局、中井=安永「ファントム空間図」の穴のことじゃないかね、 |
現実界は穴なるトラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
ーー《われら糞と尿のさなかより生まれ出づ inter faeces et urinam nascimur》 (聖アウグスティヌス「告白」 Augustinus, Confessiones) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
どの穴も女陰の開口部の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識について』第7章、1915年) |