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2023年6月23日金曜日

世界資本主義の至高の操り人形マルキスト?



などというのを拾ったので、ほとんど情報を追っていない「気候変動」について検索してみたが、気候変動デマ、climate change hoax のたぐいがふんだんにあるね。






ほかにも、グレタ・トゥーンベリとクラウス・シュワブおよび世界経済フォーラム(WEF)にかかわっての情報が腐るほどある(これはまた別投稿するかも)。


で、どうなんだろ? やっぱり気候変動も世界資本主義者の到富欲動のツールなんだろうかね。


使用価値は、けっして資本家の直接目的として取り扱われるべきではない。個々の利得もまたそうであって、資本家の直接目的として取り扱われるべきものは、利得の休みなき運動[rastlose Bewegung des Gewinnens]でしかないのだ。こういう絶対的な致富欲動[absolute Bereicherungstrieb]ーーこういう情熱的な価値追求は、資本家にも貨幣蓄蔵者にも共通のものではあるが、しかし貨幣蓄蔵者が狂気の資本家でしかないのに対して、資本家のほうは合理的な貨幣蓄蔵者である。 貨幣蓄蔵者は、価値の休みなき増殖[rastlose Vermehrung des Werts]を、貨幣を流通から救いだそうとすることによって追求するが、より賢明な資本家は、貨幣をつねに新たに流通にゆだねることによって達成するわけである。

Der Gebrauchswert ist also nie als unmittelbarer Zweck des Kapitalisten zu behandeln . Auch nicht der einzelne Gewinn, sondern nur die rastlose Bewegung des Gewinnens. Dieser absolute Bereicherungstrieb, diese leidenschaftliche Jagd auf den Wert ist dem Kapitalisten mit dem Schatzbildner gemein, aber während der Schatzbildner nur der verrückte Kapitalist, ist der Kapitalist der rationelle Schatzbildner. Die rastlose Vermehrung des Werts, die der Schatzbildner anstrebt, indem er das Geld vor der Zirkulation zu retten sucht, erreicht der klügere Kapitalist, indem er es stets von neuem der Zirkulation preisgibt.

(マルクス『資本論』第一巻第二篇第四章第一節)


もし仮にそうなら、例えば日本の若きマルキスト、気候変動アジェンダがとっても好きな斎藤幸平くんーーーー私はひそかに彼を「気候変動フェティシスト」と呼んでいる、なぜなら宇露戦争の主因まで「気候戦争」と呼びつつ気候変動のせいにしているのだからーーをどう扱うべきかね。本人はアンチ資本主義の活動をしているつもりだろうが、実は「世界資本主義の至高の操り人形学者」かもよ、無意識な・意図せざる、と但し書きをつけておかねばならないが。


マルクスは商品の奇怪さについて語ったが、われわれもそこからはじめねばならない。商品とはなにかを誰でも知っている。だが、その「知っている」ことを疑わないかぎり、商品の奇怪さはみえてこないのである。たとえば、『資本論』をふりまわすマルクス主義者に対して、小林秀雄はつぎのようにいっている。


《商品は世を支配するとマルクス主義は語る。だが、このマルクス主義が一意匠として人間の脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、人に商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせる力をもつものなのである。》(「様々な意匠」)


むろん、マルクスのいう商品とは、そのような魔力をもつ商品のことなのである。商品を一つの外的対象として措定した瞬間に、商品は消えうせる。そこにあるのは、商品形態ではなく、ただの物であるか、または人間の欲望である。言うまでもなく、ただの物は商品ではないが、それなら欲望がある物を商品たらしめるのだろうか。実は、まさにそれが商品形態をとるがゆえに、ひとは欲望をもつのだ。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)



この柄谷が引用している小林秀雄の言っていることは、商品のフェティシズムである。

一見したところ、商品はきわめて明白でありふれた物に見える。だがそれを分析してみると、形而上学的神秘や神学的微妙さに満ちた、何とも厄介な物であることがわかる。Eine Ware scheint auf den ersten Blick ein selbstverständliches, triviales Ding. Ihre Analyse ergibt, daß sie ein sehr vertracktes Ding ist, voll metaphysischer Spitzfindigkeit und theologischer Mucken.〔・・・〕


商品形態の謎めいた性格[Das Geheimnisvolle der Warenform ]とは偏に次のことにある;商品形態が彼ら自身の労働の社会的性格を、諸労働生産物自身がもつ対象的な諸性格、これら諸物の社会的な諸自然属性として、人の眼に映し出し、したがって生産者たちの社会の総労働との社会的関係を彼の外に存在する諸対象の社会的関係として映し出す。この置き換えに媒介されて労働生産物は商品、すなわち人にとって、超感覚的な物あるいは社会的な物[sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge]になる。〔・・・〕


(商品がもつ謎めいた性格の)類例を見出すには宗教の領域[die Nebelregion der religiösen Welt ]に赴かなければならない。そこでは人間のこしらえた物が独自の命を与えられて、相互に、また人々に対していつでも存在する独立に姿で現れるからである。同様に、商品世界では人の手の諸生産物が命を吹き込まれて、互いに、また人間たちとも関係する自立した姿で表れている。


これを私はフェティシズムと名づける。それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.(マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)


簡単に言えば、


マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)


小林秀雄を変奏しておこう、


「気候変動」が一意匠としてマルキストの脳中を横行する時、それは立派な商品である。そして、この変貌は、マルキストに商品は世を支配するといふ平凡な事実を忘れさせるフェティシズム=呪物崇拝の力をもつものなのである。