いや、フェティシズムは言語を使用している限り、誰でも落ち入る、少なくともそうなりがちであり、重要なのはそれに自覚的か否かだ(もっとも「気候変動フェティシズム」では、仮にそれに自覚的であっても、マルクス的観点からは、器が小さ過ぎるということはある)。
例えば、柄谷は近著でこう書いている。
共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。〔・・・〕 人類はエデンの園にいたとき、いわば原遊動的な状態にあった。しかし、それは定住化とともに失われ、A・B・Cが支配する社会が形成された。ゆえに、エデンの園に戻ることが目指される。それがDであるといってもよい。(柄谷行人『力と交換様式』2022年) |
|
Dは人間の願望や意志によってもたらされるのでなく、それらを超えた何かとして到来する。〔・・・〕 そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、"Aの高次元での回復"としてのDが必ず到来する、と。(柄谷行人『力と交換様式』2022年) |
この叙述を、『世界史の構造』の解説としてある『交換様式入門』に示された図とともに眺めてみよう。
特に注目すべきなのは、3番目の「交換と力の諸関係」だ。交換様式Aは「呪力(フェティッシュ)」と直接的にフェティッシュに言及されている。交換様式Cも「貨幣物神崇拝(信用の力)」、つまり貨幣フェティッシュだ。だが、交換様式Bの「政治的権力」だって権力のフェティシズムと言い換えうる。さらに交換様式Dの「神の力」はどうか。これまた神のフェティシズムだよ、やっぱり。
『力と交換様式』の結論として最後に記された《"Aの高次元での回復"としてのDが必ず到来する》なんてのは、交換様式Dのフェティシズムに決まっているし、柄谷はそれに十分に自覚的な筈。
フェティシズムは、最古代には、われわれ人間存在の基盤であった[le fétichisme qui, comme aux temps les plus anciens, reste à la base de notre existence humaine] (ミシェル・レリス Michel Leiris, « Alberto Giacometti », ドキュマンDocuments, n°4, sept. 1929) |
|