youtube.com 【伊藤貫の真剣な雑談】第14回「アメリカ民主政治の堕落と混乱を予告したトクヴィル!!!-前編」[桜R5/5/27] |
伊藤貫のトクヴィル解説動画を、反ワクチン派として頑張っているハシクレさんが少し前にまとめているのを今頃見た。 |
内科医の端くれ @naika_hashikure May 31 |
【今週の伊藤貫さん】 先週のラジオで伝えた彼の考え方、そういうエリートや国民が作られてきた経緯を怖いくらいにズバリ言い当てているので紹介します。今回も相変わらず明快で示唆に富んでいて素晴らしい講義です。 |
・アレクシ・ド・トクヴィルはフランスの政治思想家。国会議員、外務大臣も務めた。彼による啓蒙思想・啓蒙主義批判。啓蒙思想というのは18世紀後半にできた、大雑把に言うと国民主権、民主主義、自由主義、平等主義。これが理性的な国家の状態であると。 ・階級社会、王政、キリスト教世界観は迷信に満ちている。我々は理性を崇拝する進歩的な人間であるから、民主主義、平等主義、自由主義というイデオロギーを社会で実施すればいい。 |
・トクヴィルは1805年生まれ、ナポレオンが皇帝だったとき。その後ブルボン王朝の司法官僚になった。 その後いろいろあり、1848年2月革命で王政→共和制のときに外務大臣。だがナポレオン3世のクーデターを許せずに衝突してフランス政界から引退。中道路線。 ・『Democracy in America』1835年と1840年に出版。800ページ。 ・ものすごく頭がいい。啓蒙主義に対する支持と鋭い批判が同居している。啓蒙主義、進歩主義を受け入れる立場で政治をやっていながら、啓蒙主義をやっていて本当に国や国民の質は良くなるのか、より良い生き方をしているのかという点ですごく疑問を持っていた。口で言うのとやってること考えてることが違うとかそういう浅薄なものではなく、政治思想と哲学の面、要するに人間の良い生き方とは何かという点から彼は啓蒙主義に批判的だった。 |
・アメリカの民主主義が崩壊状態であることを説明できる。予言していた。来年誰が大統領になってもろくなことにならない。アメリカ人の7割以上が大手マスコミ報道を信用していない。4割はこの前の選挙が不正選挙だと思っている。政府への信頼がなくなり、言論の自由・報道の自由が揺らいで国民を騙すために動いているのではないかと思われている。こんな国では民主主義を維持できないのではないか。 ・日本も自民党が国防政策も経済政策も30年間失敗してきても、ろくな野党がいないから自民党が失敗してると分かっても野党に入れられない。これは民主主義はうまく運営されていないということ。世界中でみんなそう思い始めている。なぜ民主主義自由主義平等主義を長期間続けるとこうなるのか、それがトクヴィルの本で分析されている。 |
・まずポイントは5つ。 ①民主主義体制を長く続けていると、国民が深く考える能力を失う。 ②国民が個人主義的になって、公の問題に対して無気力で無関心になる。 ③自分にしか関心を持たない、利己的な拝金主義者になる。 ④人間としての本当の自由を失う。 ⑤価値判断力が低劣化し、学問も芸術も文明の質も低下していく。 ・プラトンも民主主義が長く続くと価値判断能力を失って、もう一度独裁者が出てくると専制政治になると言っていた。 ・民主主義をやってると、優秀な政治指導者が出てこない。民意を反映した政治家は表面的にやっているフリだけでロクでもない。これも180年前に予言していた。 |
痛烈な民主主義批判だね。日本の代表的トクヴィル研究者宇野重規がほぼ上のようなことを指摘しつつも、それにもかかわらず未来の民主主義に期待を託しているのとは異なった、伊藤貫によるトクヴィルの読み方である。もちろんこのさわりの紹介のような動画の発言にのみ準拠すれば、という範囲でしかなく、この態度自体、《価値判断力が低劣化し、学問も芸術も文明の質も低下していく》時代に生きる者の姿であり得るが。 以下もハシクレさんによる伊藤貫発言の文字起こしである。 |
@naika_hashikure ①民主主義体制を長く続けていると、国民が深く考える能力を失う。 ・18世紀の階級制度が残っていたヨーロッパの方が、19世紀の民主主義を実行し始めたヨーロッパよりも国民は思考能力があった。民主主義社会では全ての国民が平等な思考力と平等な価値判断能力を持つとみなされて、全ての人が全てのことに自分の判断を下す能力があるという建前になっている。そして国民は誰もが自分の判断に自信を持つようになる。したがって、彼らは自分よりも優れた思考力を持つ人の意見に耳を傾ける必要を感じなくなる。それと同時に社会の伝統的な価値規範を尊重する姿勢も失っていく。 |
・民主自由主義社会ぐらい深くものを考えるという態度に向いていない体制はない。民主主義社会においてはほとんどの人が金や社会的地位や名声や権力を追いかけて、毎日あくせくと動き回っている。階級制度の存在していた旧社会18世紀の社会において、人々は実はのんびりしていた。しかし、19世紀の民主自由主義の社会では機会平等であるから誰もが自分の地位と経済的条件を向上させようと競争し始める。従って18世紀と違って19世紀の国民っていうのは自分の目先の損得と目先の勝ち負けに熱中する。このように目先の損得とかそれから勝つか負けるかということに熱中する人々にとって、じっくりと自分の人生を考えてみるという沈着冷静な態度は不必要なものとなっていく。したがって民主主義における人間は激流に押し流されるあぶくのような存在になる。 |
・民主主義社会ではじっくりものを考えるという態度は軽視されるようになり、社会で活動的で活発な生き方をする人が尊敬される。深い思考力は必要とされなくなる。民主主義社会で必要なのは世間の潮流を素早く察知して、群衆の心理を鋭く見抜いて、自分が成功するチャンスを増大させていることである。従って、民主主義社会では表面的であるが尤もらしく聞こえるアイデアが一生もてはやされて、深い分析能力や洞察力は過小評価されていくようになる。国民は自分の利益と自分の快楽の役に立つ新しい方法やテクニックを望むが、自分の得にもならない抽象的な知的な活動には見向きもしなくなる。つまり、繰り返しになるが国民が深くものを考えなくなるわけです。 |
②国民が個人主義的になって、公の問題に対して無気力で無関心になる。 ・個人を尊重して、私の生き方はこうだからと、自分のやりたいことをやるという生き方。でもギリシャローマ時代から18世紀まではそもそも個人主義という言葉がなかった。 ・民主主義の時代になると、人々は優れた人の見識から学ぼうとするよりも自分自身の好き嫌いの感情と生まれつきの性格もしくは性向の中に自分の心情を見出そうとする。すると彼らは自分の生き方を見つけて自分の気にいる人たちとだけ交際して社会の動きに関心を持たなくなる。このような個人主義は、人々の公徳心を枯渇させていく。個人主義とは民主主義から生まれた生き方であり、平等主義によってより一層強化されている。 |
・フランス革命前の階級社会において、人々は自分の先祖を明確に覚えておりしかも尊敬していた。そして彼らは自分の孫の世代のことを考えながら自分の人生を生きていた。人々は先祖に対する義務と、子孫に対する義務の双方を常に念頭におきながら生活し、先祖と子孫のために自分の利益を犠牲にすることを厭わなかった。 ・しかし民主主義社会になってから人々は先祖のことなどあっさり忘れてしまった。そして子孫の世代のことも気にしなくなった。隣人に対しても無関心になった。階級社会の頃は国王から農民までの全ての人が人間関係のネットワークに組み込まれていた。しかし民主自由主義社会、機会平等主義社会は人間関係のネットワークなんてものはどんどん破壊しても構わない、自由に動き回るのが国民の生き方であり、人々は孤立しお互いに対する義務感と期待感と責任感を持たなくなった。人生で頼りになるのは自分だけになり、緊密な人間関係を気づくことが難しくなってきた。 ・思考力を深めていくには人間同士が相互に影響し合うことが大切。 |
私はトクヴィルの書自体には掠ったこともないのだが、マルクスやフローベールの先行者のようなところがあるんじゃないか。 |
トクヴィル :1805年 - 1859年 |
マルクス :1818年 - 1883年 |
フローベール :1821年 - 1880年 |
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ここでは当面、マルクスを一文、フローベールの書簡を二文だけ抜粋しておこう。
◼️マルクス:ルイ・ボナパルトなるルンペンプロレタリアートの首領
いかがわしい生計手段をもつ、いかがわしい素性の落ちぶれた貴族の放蕩児と並んで、身を持ち崩した冒険家的なブルジョアジーの息子と並んで、浮浪者、除隊した兵士、出獄した懲役囚、脱走したガレー船奴隷、詐欺師、ペテン師、ラッツァローニ、すり、手品師、賭博師、ポン引き、売春宿経営者、荷物運搬人、日雇い労務者、手回しオルガン弾き、くず屋、刃物研ぎ師、鋳掛け屋、乞食、要するに、はっきりしない、混乱した、放り出された大衆、つまりフランス人がボエーム[ボ ヘミアン]と呼ぶ大衆がいた。こういう自分と似たりよったりの分子で,ボナパルトは十二月十日会の中核をつくった。 |
Neben zerrütteten Roués <Wüstlingen> mit zweideutigen Subsistenzmitteln und von zweideutiger Herkunft, neben verkommenen und abenteuernden Ablegern der Bourgeoisie Vagabunden, entlassene Soldaten, entlassene Zuchthaussträflinge, entlaufene Galeerensklaven, Gauner, Gaukler, Lazzaroni, Taschendiebe, Taschenspieler, Spieler, Maquereaus <Zuhälter>, Bordellhalter, Lastträger, Literaten, Orgeldreher, Lumpensammler, Scherenschleifer, Kesselflicker, Bettler, kurz, die ganze unbestimmte, aufgelöste, hin- und hergeworfene Masse, die die Franzosen la bohème nennen; mit diesem ihm verwandten Elemente bildete Bonaparte den Stock der Gesellschaft vom 10. 〔・・・〕 |
このボナパルトは、 ルンペンプロレタリアートの首領となり、自分が個人的に追求している利益を大衆的形態で再発見し、あらゆる階級のこのようなくず、ごみ、残り物のうちに自分が無条件で頼ることのできる唯一の階級を認識したのである。 |
Dieser Bonaparte, der sich als Chef des Lumpenproletariats konstituiert, der hier allein in massenhafter Form die Interessen wiederfindet, die er persönlich verfolgt, der in diesem Auswurf, Abfall, Abhub aller Klassen die einzige Klasse erkennt |
(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年) |
◼️フローベール:平等は奴隷制、愚か者の群れ |
平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。 Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage. (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851) |
1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。 89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853) |
ついでにフローベールの親友ボードレールからも一文。 ◼️ボードレール:所有のみを愛する世界 |
ルイ・フィリップの晩年は、想像力の遊戯によってまだ興奮する精神の最後の爆発を見た。しかし、新しい小説家は、完全に衰微した、ーーいや衰微したよりもなお悪いーー愚鈍化した貪欲な社会、虚構を忌み嫌い所有のみを愛する社会に直面していたのだ。 Les dernières années de Louis-Philippe avaient vu les dernières explosions d'un esprit encore excitable par les jeux de l'imagination; mais le nouveau romancier se trouvait en face d'une société absolument usée, -pire qu'usée,- abrutie et goulue, n'ayant horreur que de la fiction, et d'amour que pour la possession. (ボードレール「フローベールのボヴァリー夫人論」LE 18 OCTOBRE 1857) |
ーーとボードレール=フローベールの《所有のみを愛する世界》を掲げれば、再三引用しているマルクスの《自由、平等、所有、ベンサム!》を付記しておくべきか。
◼️マルクス:自由、平等、所有、ベンサム! |
(資本制生産様式において)労働力の売買がその枠内で行なわれる流通または商品交換の領域は、実際、天賦人権の真の楽園であった。 ここで支配しているのは、自由、平等、所有、およびベンサムだけである[Was allein hier herrscht, ist Freiheit, Gleichheit, Eigentum und Bentham.] 自由! なぜなら、商品──例えば労働力──の買い手と売り手は、彼らの自由意志によってのみ規定されているのだから。彼らは、自由で法的に同じ身分の人格として契約する。契約は、彼らの意志に共通な法的表現を与えるそれの最終成果である。 |
平等! なぜなら彼らは商品所有者としてのみ相互に関係し、 等価物を等価物と交換するのだから。 所有! なぜなら誰もみな、 自分のものだけを自由に処分するのだから。 ベンサム! なぜなら双方のいずれにとっても、問題なのは自分のことだけだからである。彼らを結びつけて一つの関係のなかに置く唯一の力は、彼らの自己利益、彼らの特別利得、彼らの私益という力だけである。 Bentham! Denn jedem von den beiden ist es nur um sich zu tun. Die einzige Macht, die sie zusammen und in ein Verhältnis bringt, ist die ihres Eigennutzes, ihres Sondervorteils, ihrer Privatinteressen. (マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章「貨幣の資本への転化 Die Verwandlung von Geld in Kapital」1867年) |
※ベンサム➡︎私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) |
功利理論[Nützlichkeitstheorie」においては、これらの大きな諸関係にたいする個々人の地位、個々の個人による目前の世界の私的搾取[Privat-Exploitation]以外には、いかなる思弁の分野も残っていなかった。この分野についてベンサムとその学派は長い道徳的省察をやった。(マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」1846年) |
言語における仮面が唯一意味をもつのは、無意識的あるいは、実際の仮面の故意の表出のときのみである。この場合、功利関係はきわめて決定的な意味をもっている。すなわち、私は他人を害することによって自分を利する(人間による人間の搾取) ということである。 Die Maskerade in der Sprache hat nur dann einen Sinn, wenn sie der unbewußte oder bewußte Ausdruck einer wirklichen Maskerade ist. In diesem Falle hat das Nützlichkeitsverhältnis einen ganz bestimmten Sinn, nämlich den, daß ich mir dadurch nütze, daß ich einem Andern Abbruch tue (exploitation de l'homme par l'homme <Ausbeutung des Menschen durch den Menschen>); 〔・・・〕 |
この相互搾取理論は,ベンサムがうんざりするほど詳論したものだ[Wie sehr diese Theorie der wechselseitigen Exploitation, die Bentham bis zum Überdruß ausführte, ](マルクス&エンゲルス『ドイツイデオロギー』「聖マックス」 1846年) |