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2023年6月7日水曜日

フローベールの予言ーー大量の馬鹿がネットで話す時代

 


次のフローベールのルイーズ・コレ宛書簡は、「紋切型辞典』の最初の構想のひとつとして名高いものである。


◼️凡庸のみが正しく、独自性は危険で馬鹿げたもの

ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。

Ce serait la glorification historique de tout ce qu’on approuve. J’y démontrerais que les majorités ont toujours eu raison, les minorités toujours tort. J’immolerais les grands hommes à tous les imbéciles, les martyrs à tous les bourreaux, et cela dans un style poussé à outrance, à fusées. Ainsi, pour la littérature, j’établirais, ce qui serait facile, que le médiocre, étant à la portée de tous, est le seul légitime et qu’il faut donc honnir toute espèce d’originalité comme dangereuse, sotte, etc.

(フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. 17 décembre 1852)



これは、マルクスが『ブリュメール18日』で取り上げたルイ=ナポレオン・ボナパルトのクー・デタ直後に書かれている。


このボナパルトは、 ルンペンプロレタリアートの首領となり、自分が個人的に追求している利益を大衆的形態で再発見し、あらゆる階級のこのようなくず、ごみ、残り物のうちに自分が無条件で頼ることのできる唯一の階級を認識したのである。

Dieser Bonaparte, der sich als Chef des Lumpenproletariats konstituiert, der hier allein in massenhafter Form die Interessen wiederfindet, die er persönlich verfolgt, der in diesem Auswurf, Abfall, Abhub aller Klassen die einzige Klasse erkennt(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)


当時の社会情勢に直面して、マルクスとフローベールは同じような問題意識を持っていたのである(これはフローベールの親友ボードレールも同様➡︎[参照])。


フローベールは先の書簡前後にも、同じコレ宛の書簡の次の文がある。


平等は、あらゆる自由の否定、あらゆる精神的優位性と自然そのものの否定でないとしたら何でしょう。平等は奴隷制です。

Qu'est-ce donc que l'égalité si ce n'est pas la négation de toute liberté, de toute supériorité et de la nature elle-même? L'égalité, c'est l'esclavage.  (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Lettre du 23 mai 1851)

1789年は王族と貴族を、1848年はブルジョワジーを、1851年は民衆を粉々にした。残っているのは悪党と愚か者の群れだけです。ーーわれわれは皆、同じ水準の凡庸さに沈んでしまった。社会的平等は、精神にまで入り込んだのです。

89 a démoli la royauté et la noblesse, 48 la bourgeoisie et 51 le peuple. Il n’y a plus rien, qu’une tourbe canaille et imbécile. ― Nous sommes tous enfoncés au même niveau dans une médiocrité commune. L’égalité sociale a passé dans l’Esprit (フローベール書簡、ルイーズ・コレ宛 Flaubert À Louise Colet. A Louise Colet, le 22 septembre 1853)


この当時の仏は社会の大衆化(民主化・平等化)が顕著になった時期だった。フローベールは社会的平等の進行に伴って精神的優位性までもが破滅に瀕している状況にひどく苛立っていたのである。


ニーチェは1888年に次のように書いているが、これは1850年前後のフランスに既に起こっていた。


ある意味で、民主主義的社会において最も容易に維持され発展させられることがある。…それは、強者を破滅しようとすること、強者の勇気をなくそうとすること、強者の悪い時間や疲労を利用しようとすること、強者の誇らしい安心感を落ち着きのなさや良心の痛みに変えようとすること、すなわち、いかに高貴な本能を毒と病気にするかを知ることである。

In einem gewissen Sinne kann dieselbe sich am leichtesten in einer demokratischen Gesellschaft erhalten und entwickeln:…Daß es die Starken zerbrechen will, daß es ihren Muth entmuthigen, ihre schlechten Stunden und Müdigkeiten ausnützen, ihre stolze Sicherheit in Unruhe und Gewissensnoth verkehren will, daß es die vornehmen Instinkte giftig und krank zu machen versteht(ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)



ニーチェの「強者」概念について誤解がないよう、ここでつけ加えておこう、


より弱い者はより強い者に対して群れる[Das Schwächere drängt sich zum Stärkeren](ニーチェ『力への意志』草稿、 1882 - Frühjahr 1887)

強者の独立に対する群れの本能[der Instinkt der Heerde gegen die Starken Unabhängigen]…例外に対する凡庸の本能[der Instinkt der Mittelmäßigen gegen die Ausnahmen](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888 )

最も強い者は、最もしっかりと縛られ、監督され、鎖につながれ、監視されなければならない。これが群れの本能である[Die Stärksten müssen am festesten gebunden, beaufsichtigt, in Ketten gelegt und überwacht werden: so will es der Instinkt der Heerde.](ニーチェ『力への意志』草稿、 Herbst 1887 - Anfang 1888)


フローベール曰くの「凡庸のみが正しく、独自性は危険で馬鹿げたもの」あるいは、社会的平等の進行に伴う「精神的優位性の否定」とは、ニーチェの「群衆による強者の束縛」と相同的である。そしてニーチェは《人は強者を弱者たちの攻撃から常に守らなければならない[man hat die Starken immer zu bewaffnen gegen die Schwachen]》(ニーチェ『力への意志』草稿、Anfang 1888 - Anfang Januar 1889)と記すようにもなる。




ところでその後の世界はどうか。


ゴダールは1987年にこう言っている。


いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)



ドゥルーズは1985年にこう書いた。


耐え難いのはもはや重大な不正などではなく、日々の凡庸さが恒久的に続くことだ[L'intolérable n'est plus une injustice majeure, mais l'état permanent d'une banalité quotidienne.] (ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』1985年



同じ1985年に、クンデラはフローベールの「進歩とともに、愚かさも進歩する!」を引用しつつこう言った。


フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !

フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。


Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)



これらの発言はまだインターネットが導入される以前のものである。さて21世紀はいっそう愚かさが進歩したのか否か? 


もはや言うまでもなく、今世紀はポピュリズムが極まっている。


一八六三年の二月一日に一部五サンチームで売り出された小紙面の『ル・プチ・シュルナル』紙は、その安易な文体と情報の単純さによって、日刊紙としては初めて数十万単位の読者を獲得することに成功する。一八五〇年当時、パリの全日刊紙をあわせても三十万程度であったことを考えれば、一紙で三十五万の読者を持つ『ル・プチ・シュルナル』紙の創刊は、言葉の真に意味でマス・メディアと呼ばれるにふさわしいものの出現を意味することになる。〔・・・〕ここでの成功が、みずからの凡庸さを装いうるジャーナリストの勇気に負うものだという点を見落としてはなるまい。人類は、おそらく、一八六三年に、初めて大量の馬鹿を相手にする企業としての新聞を発明したのである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』第2部「Ⅷ 文学と大衆新聞」1988年)


マスメディア発明による「大量の馬鹿が読む」時代から、インターネット発明による「大量の馬鹿が書く」時代へ。さらに最近では、YouTubeなどで、「大量の馬鹿が話す」時代となっている。なぜ人はネットで話したがるのか。まだ書くならいい。だが話すとは多くの場合、最も内省欠如のその場限りの形式ではないか(ここでは経済的利得のアスペクトは脇に遣る)。ネット上の語りは、殆どの場合、浅はかな知を基盤とした承認欲・自己顕示欲の表出の形式以外の何ものでもないように私には見える。


「話す」とは再考と熟考から最も離れた形式である。

散文は我々を解放する。それは詩でも、雄弁でも、音楽でもない。中断された歩み、後戻り、 突然の強い調子が、再読と熟考を命ずることからも感じられるやうに。散文は時間から解き放たれてをり、型どほりの議論からも自由である。〔・・・〕脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、 散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。(アラン「詩と散文について」『精神と情念に関する81章』所収)