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2023年7月21日金曜日

柄谷行人の「抑圧されたものの回帰」解釈のいくらの矛盾と「その可能性の中心」


◼️柄谷行人における「不気味なもの」の誤読


柄谷行人は『トランスクリティーク』で、不気味なものは自己投射だと言った。


ウィトゲンシュタインは私的言語あるいは独我論に対して、社会的な言語の先行性を主張したといわれる。だが、そのようにいうことは、彼の「懐疑」をほとんど無効にしてしまうだろう。彼が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我論性なのだ。私は、ここで、独我論とは、自分一人しかいないという思考ではなく、自分にあてはまることが万人にあてはまるという考えのことであるといおう。なぜなら、後者においては、結局他者は自己の中に内面化されてしまうのだから。同時に、私は、対話とは、規則を共有しない他者との対話、あるいは非対称的な関係にとどまるような対話であると定義したい。そして、他者とはそのような者である、と。といっても、他者は、人類学者がいうような異者(不気味なもの)ではない。フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』第一部・第2章「総合判断の問題」P119-120、2001年)


これは完全な誤謬である。不気味なものは自己投射、すなわちイマジネールな自我の水準にあるものではなく、エスの水準、ラカンの現実界の水準にある。


柄谷が指摘している不気味なものが異者であるのはよい。フロイトはこう言っている。

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)


これはラカンも同様に指摘している、ーー《異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] 》(Lacan, S22, 19 Novembre 1974)


この異者とは厳密には「異者としての身体」であり、ーー《われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)ーー、この異者身体こそ、ラカンの現実界の享楽であり[参照]、フロイトのエスの欲動蠢動である。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




◼️不気味なものの回帰と抑圧されたものの回帰


さらにフロイトは不気味なものの回帰を抑圧されたものの回帰と事実上、等置している。

不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第3章、1919年)


柄谷行人の2000年代以降、とくに2010年代以降の仕事においてのフロイトへの参照の最も頻出する概念は間違いなく「抑圧されたものの回帰」である。だがこれが実際は、「不気味なものの回帰」にほかならないのである。


そしてさらにフロイトはこの不気味なもの回帰を内的反復強迫と等置している。


いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。

Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,〔・・・〕

不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。

daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)



フロイトには1919年にはエス概念はまだなかった(初出は1923年の『自我とエス』)。だが1926年の『制止、症状、不安』で、この内的反復強迫を「無意識のエスの反復強迫」としている。


たとえば抑圧過程によって、自我が危険な欲動蠢動を防衛できたとすると、エスのこの部分は、実際に制止され害されるが、同時にエスにある程度の独立性があたえられ、自我は本来の主権をある程度放棄するのである。

…sich einer gefährlichen Triebregung zu erwehren, z. B. durch den Vorgang der Verdrängung, so hat es diesen Teil des Es zwar gehemmt und geschädigt, aber ihm gleichzeitig auch ein Stück Unabhängigkeit gegeben und auf ein Stück seiner eigenen Souveränität verzichtet.


これは抑圧の本質のためであって、抑圧は、根本的には逃避の試み[Fluchtversuch]である。抑圧されたものは、自我という大きな組織から「法外に」置かれ、排除されて、無意識の世界を支配する法則にのみ支配される。危険状況が変わると、自我は、抑圧されていたものと同じ新たな欲動蠢動にたいして、防衛の動機をもたなくなり、したがって自我縮減[Icheinschränkung]という結果がはっきりしてくる。

Das folgt aus der Natur der Verdrängung, die im Grunde ein Fluchtversuch ist. Das Verdrängte ist nun »vogelfrei«, ausgeschlossen aus der großen Organisation des Ichs, nur den Gesetzen unterworfen, die im Bereich des Unbewußten herrschen. Ändert sich nun die Gefahrsituation, so daß das Ich kein Motiv zur Abwehr einer neuerlichen, der verdrängten analogen Triebregung hat, so werden die Folgen der Icheinschränkung manifest.

この新たな欲動過程は自動反復[Automatismus]をたどり、ーー私はこれを反復強迫と呼ぶの好むーーちょうど克服した危険状況がまだあるかのように、以前に抑圧されたものと同じ道をあゆむのである。したがって抑圧においての固着の契機は、無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]であり、このエスはふつうは自由にうごける自我のはたらきによって無効にされているのである。

Der neuerliche Triebablauf vollzieht sich unter dem Einfluß des Automatismus – ich zöge vor zu sagen: des Wiederholungszwanges –, er wandelt dieselben Wege wie der früher verdrängte, als ob die überwundene Gefahrsituation noch bestünde. Das fixierende Moment an der Verdrängung ist also der Wiederholungszwang des unbewußten Es, der normalerweise nur durch die frei bewegliche Funktion des Ichs aufgehoben wird.

(フロイト『制止、症状、不安』10章、1926年)


こうして、不気味なものが自我の水準にあるものではまったくなく、エスの水準にあるのがはっきりしたであろう。




◼️抑圧されたものの回帰とトラウマの回帰


柄谷行人は「抑圧されたものの回帰」について、晩年のフロイトの『モーセと一神教』の記述にほとんど全面的に依拠している。だがそこにもこうある(柄谷はこの記述を参照していないが)。


抑圧されたものの回帰は、トラウマと潜伏現象の直接的効果に伴った神経症の本質的特徴としてわれわれは叙述する[die Wiederkehr des Verdrängten, die wir nebst den unmittelbaren Wirkungen des Traumas und dem Phänomen der Latenz unter den wesentlichen Zügen einer Neurose beschrieben haben. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.3, 1939年)


(※フロイトの神経症には、現勢神経症[Aktualneurose]と精神神経症 [Psychoneurose]があることに注意[参照]。基本的には、前者がトラウマの症状であり、後者がトラウマに対する防衛の症状である。)


さて上の記述から明らかなように、抑圧されたものの回帰とは事実上、トラウマの回帰なのである。フロイトにおいてのトラウマの定義は、《トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]》(『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)であり、すなわちトラウマの回帰とは「自己身体の出来事の回帰」である。この身体の出来事ーーフロイトは「トラウマへの固着と反復強迫」とも言ったが、身体の出来事への「欲動の固着」を通した強迫的な反復であるーーとは、欲動の身体がエスに置き残され、言語化・表象化されないことを示している。言語化されないものを何とか言語化しようとする不可能な試みが反復強迫の本質である。外傷神経症における反復強迫はこのメカニズムの典型である。


外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. 

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)


あるいは、《トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Traumaは、夢の機能の障害のなかで最初に来るように見える。〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ]》(フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年)


さて、先に「不気味なもの=異者としての身体」であることを示したが、この概念自体、トラウマである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


すなわち不気味な異者のレミニサンスとはトラウマのレミニサンスであり、これがトラウマの回帰を意味する。


さらにこれが、ラカンの現実界のトラウマのレミニサンスである。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)





◼️原抑圧と後期抑圧


フロイトの抑圧には原抑圧と後期抑圧がある。

われわれが治療の仕事で扱う多くの抑圧は、後期抑圧の場合である。それは早期に起こった原抑圧を前提とするものであり、これが新しい状況にたいして引力をあたえる[die meisten Verdrängungen, mit denen wir bei der therapeutischen Arbeit zu tun bekommen, Fälle von Nachdrängen sind. Sie setzen früher erfolgte Urverdrängungen voraus, die auf die neuere Situation ihren anziehenden Einfluß ausüben. ](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)


すなわち、抑圧されたものの回帰は原抑圧されたものの回帰と後期抑圧されたものの回帰があるのである。


そして最晩年のフロイトはこの原抑圧を抑圧としか言わなくなる。

抑圧はすべて早期幼児期に起こる。それは未成熟な弱い自我の原防衛手段である[Alle Verdrängungen geschehen in früher Kindheit; es sind primitive Abwehrmaßregeln des unreifen, schwachen Ichs.]。その後に新しい抑圧が生ずることはないが、なお以前の抑圧は保たれていて、自我はその後も欲動制御[Triebbeherrschung]のためにそれを利用しようとする。新しい葛藤は、われわれの言い表し方をもってすれば、後期抑圧[ Nachverdrängung]によって解決される。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)



中期フロイトは次のように言った。


抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege(フロイト『症例シュレーバー 』1911年、摘要)

原抑圧と同時に固着がなされ、暗闇に異者が蔓延る[Urverdrängung…Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; …wuchert dann sozusagen im Dunkeln, fremd erscheinen müssen](フロイト『抑圧』1915年、摘要)



先に見たようにこの異者は不気味なものであり、トラウマである。すなわち原抑圧されたものの回帰がトラウマの回帰である。他方、後期抑圧されたものの回帰とはこのトラウマに対する防衛であり、代理満足(症状)、欲動要求の歪曲である(フロイトにおいて欲動自体がトラウマであることに注意[参照])。



神経症の形成に導くメカニズムの現象。ここでも、決定的な出来事は幼児期に起こるが、強調されるのは時期ではなく、その出来事に直面する過程、それに対する反応である。図式的に表現すると、次のように言える。


出来事の結果、満足を求める欲動要求が生じる。自我は、要求の大きさに麻痺しているため、あるいはそこに危険を感じているため、この満足を拒否する。これらの原因のうち最初のものはより原初的であり、両方とも危険な状況を回避することを目的としている。

……Phänomenen bringen die Mechanismen, die zur Neurosenbildung führen. Auch hier fallen die maßgebenden Ereignisse in frühen Kinderzeiten vor, aber der Akzent ruht dabei nicht auf der Zeit, sondern auf dem Vorgang, der dem Ereignis entgegentritt, auf der Reaktion gegen dasselbe.


In schematischer Darstellung kann man sagen: Als Folge des Erlebnisses erhebt sich ein Triebanspruch, der nach Befriedigung verlangt. Das Ich verweigert diese Befriedigung, entweder weil es durch die Größe des Anspruchs gelähmt wird oder weil es in ihm eine Gefahr erkennt. Die erstere dieser Begründungen ist die ursprünglichere, beide laufen auf die Vermeidung einer Gefahrsituation hinaus.


自我は抑圧の過程を通じて危険から身を守る。欲動蠢動はなんとかして抑制され、その誘因やそれに関連する知覚や表象は忘れ去られる。しかし、過程はそれで終わったわけではなく、欲動はその強さを保持しているか、再び強さを集めているか、あるいは新たな誘因によって再び目覚めるかのいずれかである。


その後、欲動は自分の主張を更新し、通常の満足への道が抑圧の傷跡と呼ばれるものによって閉ざされているため、どこか弱い部分で欲動は代理満足と呼ばれるものへの別の道を切り開き、自我の承認もなければ自我の把握もなく、症状として現れる。

Das Ich erwehrt sich der Gefahr durch den Prozeß der Verdrängung. Die Triebregung wird irgendwie gehemmt, der Anlaß mit den zugehörigen Wahrnehmungen und Vorstellungen vergessen. Damit ist aber der Prozeß nicht abgeschlossen, der Trieb hat entweder seine Stärke behalten oder er sammelt sie wieder oder er wird durch einen neuen Anlaß wieder geweckt. 


Er erneuert dann seinen Anspruch, und da ihm der Weg zur normalen Befriedigung durch das, was wir die Verdrängungsnarbe nennen können, verschlossen bleibt, bahnt er sich irgendwo an einer schwachen Stelle einen anderen Weg zu einer sogenannten Ersatzbefriedigung, die nun als Symptom zum Vorschein kommt, ohne die Einwilligung, aber auch ohne das Verständnis des Ichs.


症状形成の全ての現象は「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる。だが、それらの際立った特徴は、原初の出来事と比較して、回帰したものが広範囲にわたる歪曲を受けていることである。

Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. Ihr auszeichnender Charakter ist aber die weitgehende Entstellung, die das Wiederkehrende im Vergleich zum Ursprünglichen erfahren hat.

(フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)




なおフロイトラカン両者においてトラウマとは喪失(喪われた対象)でもある[参照]。この前提で簡単に図示しておく。




つまり原抑圧されたものの回帰とは、トラウマの回帰以外に、喪われたものの回帰ーー喪われた対象の回帰ーーとも言える。




◼️柄谷行人の「抑圧されたものの回帰」


ここで柄谷の「抑圧されたものの回帰」の記述をいくつか抜き出してみよう(なお『世界史の構造』は邦原文がいま手元になく英訳から私訳した)。


交換様式Dは、原初的な交換様式A(互酬性)の高次元における回復である。それは、たんに人々の願望や観念によるのではなく、フロイトがいう「抑圧されたものの回帰」として「必然的」である[mode of exchange D is the return in a higher dimension of the primal mode of exchange A (reciprocity). This comes about not as a result of people's desires or ideas, but rather is inevitable, like Freud's “returned of the repressed.”](柄谷行人『世界史の構造』序章)

私の観点では、「抑圧されたものの回帰」として戻ってくるものは遊動性(自由)である[in my view, what came back in this “return of the repressed” was the nomadism (freedom)] (柄谷行人『世界史の構造』第2章、2010年)



柄谷は、この交換様式Dの回帰を「抑圧されたものの回帰=遊動性の回帰」とし、それを共産主義としている。


共産主義は、生産手段の共有された所有に依存するというよりも遊動性の回帰である[communism depends less on shared ownership of the means of production than on the return of nomadism. ](THE STRUCTURE OF WORLD HISTORY, AUTHOR'S PREFACE TO THE ENGLISH TRANSLATION, Kojin Karatani April 20, 2012)

共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)





さらに次のようにもある。


人類はエデンの園にいたとき、いわば原遊動的な状態にあった。しかし、それは定住化とともに失われ、A・B・Cが支配する社会が形成された。ゆえに、エデンの園に戻ることが目指される。それがDであるといってもよい。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)

Dは人間の願望や意志によってもたらされるのではく、それらを超えた何かとして到来する。〔・・・〕


そこで私は、最後に、一言いっておきたい。今後に、戦争と恐慌、つまり、BとCが必然的にもたらす危機が幾度も生じるだろう。しかし、それゆえにこそ、〝Aの高次元での回復〟としてのDが必ず到来する、と。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)


この僅かな引用では判断し難いかもしれないが、私は柄谷行人の抑圧されたものの回帰は「原抑圧されたものの回帰」だろうと今のところ見なしている。少なくとも喪われたものの回帰を言っているように見える。ただし、そこで「高次元での回復」という表現が気になるが。フロイトラカンにおいて原抑圧されたものの回帰はそのまま回帰し、後期抑圧されたものの回帰は代理として歪曲されて回帰する。この高次元は歪曲か?


今、私はフロイトの「抑圧されたものの回帰」を柄谷の使用法にそのまま当てはめようとしているわけだが、もちろん柄谷はこの概念の「可能性の中心」を導き出しているのであり、フロイトの定義をそのまま当てはめる必要はないという立場もあろう。


とはいえ近著で「エデンの園の回帰」までを言うようになっている柄谷行人に、私は今のところまだついていけていない。


ちなみにフロイトの究極の原抑圧は母胎の喪失に関わる。



結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


上に「原トラウマ的不安状況の回帰」とあるが、フロイトにおいて原不安と原トラウマはともに出産外傷であり、これが原点にある「原抑圧」である。



最も根源的不安(出産時の《原不安》)は母からの分離によって起こる[Die Angst erscheint so als Reaktion auf das Vermissen des Objekts, […] daß die ursprünglichste Angst (die » Urangst« der Geburt) bei der Trennung von der Mutter entstand.](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

出産外傷、つまり出生という行為は、一般に母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]が克服されないまま、原抑圧[Urverdrängung]を受けて存続する可能性をともなう原トラウマ[Urtrauma]と見なせる。

Das Trauma der Geburt .… daß der Geburtsakt,… indem er die Möglichkeit mit sich bringt, daß die »Urfixierung«an die Mutter nicht überwunden wird und als »Urverdrängung«fortbesteht. …dieses Urtraumas (フロイト『終りある分析と終りなき分析』第1章、1937年、摘要)



フロイトの死の枕元にあったとされる草稿では次のようにある。


人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)


ーー放棄された子宮内生活は《喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben]》(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)である。


この究極の原抑圧されたものの回帰としての母胎回帰は、柄谷曰くの「エデンの園の回帰」と似ていないことはないが、フロイトラカンにおいての母胎回帰の実現は母なる大地への帰還、すなわち死である。とすれば、この死の高次元での回復が共産主義なのであろうか・・・


というわけで、「臨床的」フロイトと柄谷行人を額面通りに結びつけようとするとこうなってしまうのである。




◼️抑圧されたものの回帰の可能性の中心


さて、ここまでは臨床的フロイトの「抑圧されたものの回帰」を示した。だがフロイトの『モーセと一神教』には社会的相の「抑圧されたものの回帰」があるーーそもそもフロイトは『文化の中の居心地の悪さ』で、精神分析を臨床的相にかぎらず、《文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]》のすすめをしているーー、柄谷の議論において重要なのはそのアスペクトである。


フロイト観点においては、一度抑圧され忘却されたものが回帰してくるとき、それはたんなる想起ではなく、強迫的なものとなる。氏族社会に関するフロイトの理論では、回帰してくるのは殺された原父である。だが私の観点では、この「抑圧されたものの回帰」として戻ってくるものは、定住によって失われた遊動性(自由)である。これが、なぜ互酬性原理が強迫的に機能するかを説明する。

In his view, when that which has been repressed and forgotten returns, it appears not simply as a memory but as a threat.11 In Freud's theory of clan society, what returned was the murdered father. But in my view, what came back in this “return of the repressed” was the nomadism (freedom)― since equality came with nomadism― that was abandoned with the adoption of fixed settlement. This explains why the principle of reciprocity functioned with the force of a threat. (柄谷行人『世界史の構造』第2章、2010年ーー英訳から私訳)



柄谷は《氏族社会に関するフロイトの理論では、回帰してくるのは殺された原父である》と言っているが、これはフロイトの次の文にある。


宗教現象は人類が構成する家族の太古時代に起こり遥か昔に忘却されてしまった重大な出来事の回帰としてのみ理解されうる、そして、宗教現象はその強迫的特性をまさにこのような根源から得ているのであり、それゆえ、歴史的真実に則した宗教現象の内実の力が人間にかくも強く働きかけてくる[als Wiederkehren von längst vergessenen, bedeutsamen Vorgängen in der Urgeschichte der menschlichen Familie, daß sie ihren zwanghaften Charakter eben diesem Ursprung verdanken und also kraft ihres Gehalts an historischer Wahrheit auf die Menschen wirken. ](フロイト『モーセと一神教』3.1b  Vorbemerkung II (im Juni 1938)


あるいは、《モーセの宗教の回帰[die Wiederkehr der Mosesreligion]》(3.1.2)、《神奉献の(再臨による)恍惚は、偉大なる父の回帰への最初の反応だった[Rausch der Gottesergebenheit die nächste Reaktion auf die Wiederkehr des großen Vaters.]》(3.2.)等々。柄谷はこの原父ではなく、《定住によって失われた遊動性(自由)》が回帰すると言っているのである。だが先に示した臨床的観点のフロイトのように、(原)抑圧されたものの回帰を「喪われたものの回帰」として捉えれば、原父の回帰も遊動性の回帰もどちらもそうなる。



例えば、柄谷は2008年の『革命と反復』という英論文ーーたぶん邦文もあるのだろうが私は知らないーーで、次のように記している。


マルクスは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの十八日』にて、フランス革命によって実現された共和制から生れた皇帝制の出現のなかに反復を見出している。1789年の革命において、王は処刑されて、それに引き続く共和制から、人びとの支持をともなって「皇帝」が出現した。これは、フロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼ぶものである。

in The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte, Marx finds repetition in the emergence of the empire out of the republic realized by the French Revolution. 

In the Revolution of 1789, the King was executed and the Emperor emerged from the subsequent republic with the people's support. This is what Freud called the “return of the repressed.” Yet, the Emperor is the return of the murdered king, but is no longer the king himself. (Kojin Karatani,Revolution and Repetition, 2008, 私訳)


この皇帝の回帰は遊動性の回帰ではなく、喪われたものの回帰のほうがふさわしい。このように「抑圧されたものの回帰」を2010年以降の柄谷が言うようにではなく、臨床的フロイトを基盤としてより大きく取れば、柄谷の各時期の記述における「一見した矛盾」も少なくなり、この概念の可能性の中心が見えてくるのではないか。


ただしこう捉えると、負の相の回帰にいっそう目配りせねばならなくなる。例えば現在のヨーロッパにおける「ナチの回帰」、日本における「戦前の無責任体制の回帰」などに。



初期ラカンは次のように言った。


抑圧は何よりもまず固着である[le refoulement est d'abord une fixation.  ](Lacan, S1, 07 Avril 1954)

想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される。[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)



このラカンのジャック=アラン・ミレールによる注釈は次のものである。


ラカンは欲動的対象との関係[le rapport à l'objet pulsionnel ]において「抑圧されたもの」のモデルを考えようとした。これが次の凝縮された叙述が意味していることである。《このページは忘れられている。だが行為として呼び戻される[cette page est oubliée mais elle se rappelle dans les actes ]». これが意味するのは、抑圧されたものの回帰は欲動的享楽に関係するということである[le retour du refoulé dans le rapport à la jouissance pulsionnelle]。(J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 3/02/99)


そして先のラカンは次のフロイトの言い換えであるだろう。


被分析者は、忘れられたものや抑圧されたものを想起するわけではなく、むしろそれを行為にあらわす。人はそれを(言語的な)記憶として想起するのではなく、(身体的な)行為として再現する。彼はもちろん自分がそれを反復していることを知らずに反復している。 der Analysierte erinnere überhaupt nichts von dem Vergessenen und Verdrängten, sondern er agiere es. Er reproduziert es nicht als Erinnerung, sondern als Tat, er wiederholt es, ohne natürlich zu wissen, daß er es wiederholt.(フロイト『想起、反復、徹底操作[Erinnern, Wiederholen und Durcharbeiten]』 1914年)


…………………


※付記


先に示したように、フロイトは、「症例シュレーバー」ーー『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(1911年)ーーにて、最初の抑圧(原抑圧)を欲動の固着[Fixierungen der Triebe]としつつ、さらに《原初に抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe ]》と《原初に置き残された欲動[primär zurückgebliebenen Triebe]》を等置している。この別名が《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(フロイト『快原理の彼岸』第4章、1920年)である。


さらに晩年には、この置き残しを「リビドー固着の残滓」と呼んでいる。そしてエスに置き残されるものが、不気味なものとしての異者身体である。


常に残滓現象がある。つまり部分的な置き残しがある。〔・・・〕標準的発達においてさえ、転換は決して完全には起こらず、最終的な配置においても、以前のリビドー固着の残滓(置き残し)が存続しうる[Es gibt fast immer Resterscheinungen, ein partielles Zurückbleiben. […]daß selbst bei normaler Entwicklung die Umwandlung nie vollständig geschieht, so daß noch in der endgültigen Gestaltung Reste der früheren Libidofixierungen erhalten bleiben können. ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第3章、1937年)

異者としての身体は本来の無意識としてエスのなかに置き残されたままである[Fremdkörper…bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück. ](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)


これまた先に示したが、この異者としての身体こそエスの欲動蠢動[Triebregung des Es] (無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es])である。

さらにもうひとつ、最晩年のフロイトにとって、超自我自体、この固着(固着の残滓=エスへの置き残し)に関わる。

超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




ちなみにラカンのリアルな対象aはこの残滓(エスへの置き残し)である。


残滓がある。分裂の意味における残存物である。この残滓が対象aである[il y a un reste, au sens de la division, un résidu.  Ce reste, …c'est le petit(a).  ](Lacan, S10, 21 Novembre  1962)

フロイトの異者は、置き残し、小さな残滓である[L'étrange, c'est que FREUD…c'est-à-dire le déchet, le petit reste,](Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963)

この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


そしてこの対象aが喪われた対象かつトラウマの穴である。


喪われた対象aの形態[la forme de la fonction de l'objet perdu (a)](Lacan, S11, 13 Mai 1964)

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[ l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel](Lacan, S16, 27 Novembre 1968)

現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)


ーー《ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び。トラウマの穴はそこにある[le jeu de mots de Lacan sur le troumatisme. Le trou du traumatisme est l]》  (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006)



そしてこのトラウマの穴が、欲動の現実界かつ原抑圧(固着)に関係する。


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

私が目指すこの穴、それを原抑圧自体のなかに認知する[c'est ce trou que je vise, que je reconnais dans l'Urverdrängung elle-même].(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


したがって原抑圧された欲動の回帰は、トラウマの回帰、喪われた対象の回帰なのである。


フロイトはこれを固着点へのリビドー退行とも言った。


侵入、(原)抑圧されたものの回帰[des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten ]〔・・・〕

この侵入は固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。そしてその固着点へのリビドー的展開の退行を意味する[und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)



そもそもフロイトにとって欲動の対象自体が、事実上、この固着である。


欲動の対象は、欲動がその目標を達成できるもの、またそれを通して達成することができるものである。〔・・・〕特に密接に「対象への欲動の拘束」がある場合、それを固着と呼ぶ。この固着はしばしば欲動発達の非常に早い時期に起こり、分離されることに激しく抵抗して、欲動の可動性に終止符を打つ。

Das Objekt des Triebes ist dasjenige, an welchem oder durch welches der Trieb sein Ziel erreichen kann. [...] Eine besonders innige Bindung des Triebes an das Objekt wird als Fixierung desselben hervorgehoben. Sie vollzieht sich oft in sehr frühen Perioden der Triebentwicklung und macht der Beweglichkeit des Triebes ein Ende, indem sie der Lösung intensiv widerstrebt. (フロイト「欲動とその運命』1915年)


したがって、トラウマ的固着点への退行が、原抑圧された欲動の回帰にほかならない。



そして原点にある固着、そのエスへの置き残し(残滓)は、《母へのエロス的固着の残滓[ Rest der erotischen Fixierung an die Mutter ](フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)であり、これがトラウマ的喪失である。


母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts] (フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)

母の喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens der Mutter] 〔・・・〕この喪われた対象[vermißten (verlorenen) Objekts]への強烈な切望備給は、飽くことを知らず絶えまず高まる。それは負傷した身体部分への苦痛備給と同じ経済論的条件を持つ[Die intensive, infolge ihrer Unstillbarkeit stets anwachsende Sehnsuchtsbesetzung des vermißten (verlorenen) Objekts schafft dieselben ökonomischen Bedingungen wie die Schmerzbesetzung der verletzten Körperstelle ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


ラカンが《母は構造的に対象aの水準にて機能する[C'est cela qui permet à la mamme de fonctionner structuralement au niveau du (а).]》  (Lacan, S10, 15 Mai 1963 )と言っているのは、おそらくこのフロイト文に起源がある。繰り返せば、対象aはトラウマ的喪われた対象であり固着点なのだから。



さてこの論理ーー「原抑圧された欲動の回帰=トラウマの回帰=喪われた対象の回帰」(固着点へ退行)ーーをフロイト曰くの《文化共同体病理学[Pathologie der kulturellen Gemeinschaften ]》(『文化の中の居心地の悪さ』)にそのまま「真に」適用しうるか否かは、ここでは曖昧なままにしておく。


・・・とはいえ実際、この今のヨーロッパあるいはNATOにおける事実上の「ナチの回帰」は、トラウマ的固着への退行にどうしても見えてしまうということはある。


ーー《ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう。La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia》(フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年)