私はあなたを思って気が狂いそうになる。私は「気が狂う」と言った。このオブセッションは常軌を逸しているから。 Je deviens fou de penser à toi. Je dis « fou » car cette obsession se fait anormale.(Lettre de Paul Valéry à Jean Voilier, 7 juin 1939) |
いまさらだが、芸術は代理満足なんだよ。少なくともヴァレリーの場合は女狂いの昇華だったんだ。 |
「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。〔・・・〕 |
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。 しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。〔・・・〕 |
外傷は破壊だけでなく、一部では昇華と自己治癒過程を介して創造に関係している。先に述べた詩人ヴァレリーの傷とは彼の意識においては二十歳の時の失恋であり、おそらくそれに続く精神病状態である(どこかで同性愛性の衝撃がからんでいると私は臆測する)。 二十歳の危機において、「クーデタ」的にエロスを排除した彼は、結局三十年を隔てて五十一歳である才女と出会い、以後もの狂いのようにエロスにとりつかれた人になった。性のような強大なものの排除はただではすまないが、彼はこの排除を数学をモデルとする正確な表現と厳格な韻律への服従によって実行しようとした。それは四十歳代の第一級の詩として結実した。フロイトならば昇華の典型というであろう。 |
しかし、彼の詩が思考と思索過程をうたう下にエロス的ダブルミーニングを持って、いわば袖の下に鎧が見えていること、才女との出会いによって詩が書けなくなったことは所詮代理行為にすぎない昇華の限界を示すものであり、昇華が真の充足を与えないことを物語る。彼の五十一歳以後の「女狂い」はつねに片思い的で青年時の反復である(七十歳前後の彼が一画家に送った三千通の片思い的恋文は最近日本の某大学が購入した)。 |
他方、彼の自己治癒努力は、生涯毎朝書きつづけて死後公開された厖大な『カイエ』にあり、彼はこれを何よりも重要な自己への義務としていた。数学の練習と精神身体論を中心とするアフォリズム的思索と空想物語と時事雑感と多数の蛇の絵、船の絵、からみあったPとV(彼の名の頭文字であり男女性器の頭文字でもある)の落書きが「カイエ」には延々と続く。自己治癒努力は生涯の主要行為でありうるのだ。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
代理満足とは症状であり、つまり芸術は症状だ。 |
芸術が与えてくれる代理満足は、現実に比べればイリュージョンに過ぎない[Die Ersatzbefriedigungen, wie die Kunst sie bietet, sind gegen die Realität Illusionen, ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章、1930年) |
症状は、生において喪われているものの代わりの代理満足として適切に捉えることができる[Die Symptome sind dann erst recht als Ersatzbefriedigung für die im Leben vermißte zu verstehen. ](フロイト『精神分析入門』第19講「抵抗と抑圧」1917年) |
もちろん芸術だけが症状ではないが、何の代理かと言えば、欲動の代理だ。つまり欲動を抑圧している。 |
症状は差し止められた欲動満足の徴候かつ代理であり、抑圧過程の結果である[Das Symptom sei Anzeichen und Ersatz einer unterbliebenen Triebbefriedigung](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年) |
直接的な満足から遠ざかることを余儀なくされた欲動要求は、代理満足へと導かれた新たな道を歩むことを余儀なくされ、このような道程の過程で、原初の欲動目標との結びつきが緩くなり、脱性化される。 Die von direkter Befriedigung abgedrängten Triebansprüche werden genötigt, neue Bahnen einzuschlagen, die zur Ersatzbefriedigung führen, und können während dieser Umwege desexualisiert werden, die Verbindung mit ihren ursprünglichen Triebzielen lockern.(フロイト『精神分析概説』第8章、1939年) |
脱性化とあるが、この症状の別名は昇華、性欲動あるいは愛の欲動、つまりエスのリビドーの昇華だ。 |
性的欲動力の昇華[Sublimierung sexueller Triebkräfte](フロイト『性理論三篇』1905年) |
哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛[Geschlechtsliebe]との関係の点で精神分析でいう愛の力[Liebeskraft]、すなわちリビドー[Libido]と完全に一致している。〔・・・〕 さて、この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
エスのリビドーの脱性化あるいは昇華化 [die Libido des Es desexualisiert oder sublimiert] (フロイト『自我とエス』4章、1923年) |
だがこの欲動抑圧としての昇華は充分には機能しない。 |
人間の今日までの発展は、私には動物の場合とおなじ説明でこと足りるように思われるし、少数の個人においに 完成へのやむことなき衝迫[rastlosen Drang zu weiterer Vervollkommnung ]とみられるものは、当然、人間文化の価値多いものがその上に打ちたてられている欲動抑圧[Triebverdrängung]の結果として理解されるのである。 |
抑圧された欲動[Der verdrängte Trieb]は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華[alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen]は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む »ungebändigt immer vorwärts dringt«」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 |
(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
で、どうだろう、これは一般化できるのかね、人はみな女狂いから逃れることはできない、と。
我々はまた、女たちは男たちに比べ社会的関心に弱く、欲動昇華の能力が低いと見なしている[Wir sagen auch von den Frauen aus, daß ihre sozialen Interessen schwächer und ihre Fähigkeit zur Triebsublimierung geringer sind als die der Männer.] (フロイト『新精神分析入門』第33講「女性性」1933年) |
|
男だけでなく女も女狂いだよ、男狂いじゃなくて。
定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性を愛することである。それは最も明瞭なことである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime les femmes, quel que soit son sexe propre. Ce sera plus clair.] (LACAN, L'étourdit, AE467, le 14 juillet 72) | ||||||||||||||
ラカンの異性愛[hétérosexuel]における "hétéro"とは異者[étrangère]だ。 | ||||||||||||||
ヘテロは異者である[hétéro …est étrangère](LACAN, CONFÉRENCE À GENÈVE SUR LE SYMPTÔME, 1975) | ||||||||||||||
ひとりの女は異者である[une femme, …c'est une étrangeté. ](Lacan, S25, 11 Avril 1978) | ||||||||||||||
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) | ||||||||||||||
女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』1919年) | ||||||||||||||
以上、定義上異性愛とは、おのれの性が何であろうと、女性器を愛することである[Disons hétérosexuel par définition, ce qui aime l'organe féminin, quel que soit son sexe propre.]・・・ ま、これは極論としても女性の異性愛は男に愛される自分を愛しているのであり、ナルシシズムじゃないかね。 あとは同性愛だな、女の同性愛は「女を愛する」という定義通りとして男の同性愛は例外だろうか?
この記述を受け入れるなら、男性の同性愛は原愛の対象である母に最も忠実な者であり、浮気しないんだ、他の女に。 で、どうだろう、人はみな女狂いなんだろうか? どう思う、そこのキミ?
昇華したまま死ぬってのも人生もったいないからな、やっぱり女狂いしたほうがいいんじゃないかね。これがヴァレリーの「蚊居肢」の教えだよ。 |