このブログを検索

2023年7月2日日曜日

貨幣は王 (価値形態論)


これまでマルクスの価値形態論の注釈として、前期柄谷(主に『マルクスその可能性の中心』や『探究』)、岩井克人の『貨幣論』、ジジェクによるラカンの言説理論との結びつけ(特に『為すところを知らざればなり』)などを引用してきたが、いまの私には『トランスクリティーク』における簡潔な注釈が好ましい。これ自体、数度掲げているが、ここにいくらかの補足をつけ加えつつ再掲する(なおいくらかの用語に独語を付記した)。

価値形態論は次のように展開されている。先ず、「単純な価値形態」einzelne Wertform において、商品Aの価値は商品Bの使用価値によって表示される。そのとき、商品Aは相対的価値形態[relative Wertform]、商品Bは等価形態 [Äquivalentform]におかれている。マルクスは単純な価値形態を次のような例で示している。


(相対的価値形態)   (等価形態)

二〇エレのリンネル =   一着の上衣


この等式が示すのは、二〇エレのリンネルは、自らに価値があるということができず、一着の上衣と等置されたあとで、はじめてその自然形態によって価値を示されるほかない、ということである。一方、一着の上衣は、いつでも前者と交換できる位置にいる。等価形態が、一枚の上衣にあたかもそれ自身のなかに交換価値(直接的交換可能性)が内在しているかのように見えさせるのだ。《商品が等価形態にあるということは、その商品が他の商品と直接に交換されうるという形態にあるということなのである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節)。


貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。むろん、この単純な等式においては、一着の上衣がつねに等価形態にあるわけではない。二〇エレのリンネルもまた等価形態に立ちうるからである。

《もちろん、リンネル20エレ=上衣1着 あるいは、二〇エレのリンネルは一着の上衣に値するという表現は、上衣1着=リンネル20エレ あるいは一着の上衣は二〇エレのリンネルに値するという逆の関係も、含んではいる。だが、そうではあるけれど、上衣の価値を相対的に表現するには、この等式を逆にしなければならず、そしてそうすると、たちまち上衣にかわってリンネルが、等価になるのである。したがって同じ商品が、同じ価値表現で、同時に両方の形態で登場することはできないのである。両形態は、むしろ対極的に排除しあうのだ。


いまや、ある商品が、相対的価値形態にあるか、それとも対置された等価形態にあるかは、もっぱらそれが価値表現において、そのつど占める位置に、つまりその商品が自分の価値が表現される商品であるか、それとも自分に価値が表現される商品であるかに、かかっている。》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節A)


大切なのは、或る物が商品であるか貨幣であるかは、それがおかれた「位置」によるということである。或る物が貨幣となるのは、それが等価形態におかれるからである。その或る物は、金や銀であろうと、相対的価値形態におかれるときは、商品である。《相対的価値形態と等価形態は、たがいに依存しあい、交互に制約しあう不可分の要因であるが、しかし、同時に、互いに排斥しあう、あるいは対置される両端である》(同前)。単純な価値形態においては、リンネルは相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのか決定できない。具体的にいうと、リンネルの所有者がリンネルと上着を交換したとき、リンネルで上着を買ったと考えているなら、リンネルは等価物であるが、他方、上着の所有者は上着でリンネルを買ったと考える。つまり、上着等価物であるということがありうるのである。


つぎに、形態Ⅱ「拡大された価値形態」entfaltete Wertform は次のようなものである。




ここでは、リンネルは上着以外の多くの物と交換される。しかし、この場合でも、リンネルが相対的価値形態にあるのか等価形態にあるのかはまだ決定できない。それが決定されるのは、形態Ⅲ、「一般的な価値形態」Allgemeine Wertform が形成されるときである。




このとき、リンネルは一般的等価物となる。いいかえれば、それのみが購買力(直接的交換可能性)をもつ。それとともに、他のものが等価形態に立つことができなくなる。平たくいえば、貨幣でないすべての商品は、買われることはあっても買うことができなくなるのである。この第三の形態の形成は、ホッブスが『レヴァイアサン』で述べた社会契約と似ている。マルクス自身、それを「商品間の共同事業」と呼んでいる。


第四の形態、「貨幣形態」Geldform は「一般価値形態」の発展としてある。しかし、貨幣形態の核心はすでに一般形態において示されているので、ここでは述べない。大事なのは、このような発展を歴史的な発展と混同してはならないことである。マルクスは、その逆に、より発展した形態がおおいかくすものを超越論的=系譜学的な遡行によって見いだしているのである。貨幣形態においては、金や銀のみが一般的な等価形態の位置を占め、他のすべての物は相対的価値形態におかれる。その結果、次のように考えられてしまう。


《一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。


過程を媒介する運動は、運動そのものの結果のなかに消えさっていて、何らの痕跡もとどめていないのだ。諸商品は、自分では何もしていないのに、自分自身の価値の姿が、自分の外に、自分と並んで存在する商品体として、完成されているのを見いだすわけである。この物は、金や銀は、地球の奥底から出てきたままで、同時にあらゆる人間労働の直接の化身なのである。だからこそ、貨幣の魔術[Magie des Geldes]が生ずるのだ。》(『資本論』第一巻第一篇第二章)


貨幣形態が消してしまうのは価値形態そのものである、といってもいい。つまり、或る物を貨幣あるいは商品たらしめる、その「形式」が見失われる。その結果、重商主義者や重金主義者がそうであったように、金そのものに特別な価値があるかのように考えられてしまう。一方、古典派経済学者(スミス、リカード)はそれを否定し、それぞれの商品に内在的な価値があり、貨幣はたんにそれを表示しているだけであると主張した。この考えに基づいて、リカード左派やプルードンらは、貨幣を廃棄して、労働証票や交換銀行を作ることを構想した。マルクスがいう貨幣形態において、金がレヴァイアサンであるとするならば、古典派はそのような絶対王権体制を倒して、それをいわば立憲君主制にした、といってよい。さらに、その意味では、社会主義者たちは、商品の民主主義体制を作ろうとしたといってよい。つまり、彼らは貨幣=王なしにすまそうとしたのである。


しかし、それは本当に貨幣=王を揚棄することではない。たとえば、絶対主権者(絶対王政)を倒して出現した国民国家において、人民主権が唱えられるが、そのような人民がすでに絶対王政によって輪郭づけられたものだということが忘れられている。人民はすでに国家の人民なのである。同様に、商品を残しておいて貨幣を否定するのはおかしい。商品も貨幣と同様に価値形態いおいてはじめて存在するのである。したがって、古典派経済学において貨幣が無視されているということは、貨幣形態、すなわち、価値形態が無視されているということにほかならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章 p302 ~)




いくつか補っておこう。


①柄谷が貨幣形態[Geldform]の注釈を省いているのは、一般的な価値形態[Allgemeine Wertform]のリンネルのポジションに貨幣が置き直されるだけだから、である。




 《貨幣の謎はこうした等価形態にひそんでいる。マルクスはそれを商品のフェティシズムと呼んだ。》とあったが、これは等価形態に置かれた商品が貨幣の謎、つまり貨幣のフェティシズムになるということである。



貨幣フェティッシュの謎は、ただ、商品フェティッシュの謎が人目に見えるようになり人目をくらますようになったものでしかない[Das Rätsel des Geldfetischs ist daher nur das sichtbar gewordne, die Augen blendende Rätsei des Warenfetischs. ](マルクス『資本論』第一巻第ニ章「交換過程」)

G'(G+⊿ G) を求めること、それがマルクスのいう貨幣のフェティシズムにほかならない。マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。


だから、ここでいう商品のフェティシズムは消費社会における商品のフェティシズムーーたとえば人を店のショーウィンドウに釘付けにするようなーーと混同されてはならない。むしろ、それは消費するかわりに、いつでもそうできるという「権利」を持とうとする欲動なのであり、それが一商品 (金)を崇高なものとするのである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部第1章「移動と批判」P325)



G'(G+⊿ G)の⊿Gは剰余価値であり、事実上の商品のフェティシズムである。


・・・この過程の全形態は、G - W - G' である。G' = G +⊿G であり、最初の額が増大したもの、増加分が加算されたものである。この、最初の価値を越える、増加分または過剰分を、私は"剰余価値"と呼ぶ。この独特な経過で増大した価値は、流通内において、存続するばかりでなく、その価値を変貌させ、剰余価値または自己増殖を加える。この運動こそ、貨幣の資本への変換である。

Die vollständige Form dieses Prozesses ist daher G - W - G', wo G' = G+⊿G, d.h. gleich der ursprünglich vorgeschossenen Geldsumme plus einem Inkrement. Dieses Inkrement oder den Überschuß über den ursprünglichen Wert nenne ich - Mehrwert (surplus value). Der ursprünglich vorgeschoßne Wert erhält sich daher nicht nur in der Zirkulation, sondern in ihr verändert er seine Wertgröße, setzt einen Mehrwert zu oder verwertet sich. Und diese Bewegung verwandelt ihn in Kapital. 

(マルクス『資本論』第一篇第二章第一節「資本の一般的形態 Die allgemeine Formel des Kapitals」)

商品のフェティシズム…それは諸労働生産物が商品として生産されるや忽ちのうちに諸労働生産物に取り憑き、そして商品生産から切り離されないものである。[Dies nenne ich den Fetischismus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist.](マルクス 『資本論』第一篇第一章第四節「商品のフェティシズム的性格とその秘密(Der Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis」)




③《第三の形態(一般的な形態形態)の形成は、ホッブスが『レヴァイアサン』で述べた社会契約と似ている。マルクス自身、それを「商品間の共同事業」と呼んでいる》とあったが、柄谷は後の章こう説明している。



絶対主義王権においては、王が主権者であった。しかし、この王はすでに封建的な王と違っている。実際は、絶対主義的王権において、王は主権者という場(ポジション)に立っただけなのだ。 マルクスは、金は一般的な等価形態におかれたがゆえに貨幣であるのに、金そのものが貨幣であると考えることを、フェティシズムとよんだ。そのとき、彼は、それを次のような比喩で語っている。 《こういった反省規定はおよそ奇妙なものである。たとえば、この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。しかし、これはたんなる比喩ではなくて、そのまま絶対主義的な王権に妥当するのである。 古典経済学によって重金主義が幻想として否定されたのと同様に、民主主義的なイデオローグによって絶対主義的王権は否定された。しかし、絶対主義的王権が消えても、その場所は空所として残るのである。 ブルジョア革命は、王をギロチンにかけたが、この場所を消していない。通常の状態、あるいは国内的には、それは見えない。しかし、例外状況、すなわち恐慌や戦争において、 それが露呈するのだ。

たとえば、シュミットが評価するホップズについて考えてみよう。 ホップズは主権者を説明するために、万人が一人の者(リヴァイアサン)に自然権を譲渡するというプロセスを考えた。これはすべての商品が一商品のみを等価形態におくことによって、相互に貨幣を通した関係を結び合う過程と同じである。ホッブズはマルクスの次の記述を先取りしている。《最後の形態、形態Ⅲにいたって、ようやく商品世界に一般的・社会的な相対的価値形態が与えられるが、これは、商品世界に属する商品が、ただ一つの例外を除いて、ことごとく一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである》(『資本論』第一巻第一篇第一章第三節C、鈴木他訳、同前)。すなわち、ホップズは国家の原理を商品経済から考えたのである。そして、彼は主権者が、貨幣と同様に、人格であるよりも形態(ポジション)において存するということを最初に見いだした。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第4章 トランスクリティカルな対抗運動 P418)




ここに引用されている次の文ーー、

この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが彼らは逆に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと信じているのだ[Dieser Mensch ist z.B. nur König, weil sich andre Menschen als Untertanen zu ihm verhalten. Sie glauben umgekehrt Untertanen zu sein, weil er König ist.](マルクス『資本論』第一巻第一篇第三章註)



これは先に価値形態論の説明のなかにある次の文と事実上、等価である。


一商品は、他の諸商品が自分らの価値を全面的にこの一商品で表わすがゆえに、はじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるがゆえに、他の諸商品が自分らの価値を一般的にこの一商品で表わす、というように見えるのだ。Eine Ware scheint nicht erst Geld zu werden, weil die andren Waren allseitig ihre Werte in ihr darstellen, sondern sie scheinen umgekehrt allgemein ihre Werte in ihr darzustellen, weil sie Geld ist. (『資本論』第一巻第一篇第二章)


この意味で、柄谷は《貨幣=王》と言っているのであり、たんなるレトリックではない。