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2023年8月2日水曜日

「リベラルナショナリズム」あるいは「リベラルナルシシズム」

 

政治は嫌いだよ、僕は。でも、一年半ほど前、ヤツが土足でやってきたんだよ

私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」1979年)

けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987年)



で、いくらか「政治の生け贄」になっちまってんだ。


私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)



丸山真男の「政治的なもの」の定義をマガオで受け取ったりしてさ。


政治的なるものの位置づけ。  政治は経済、学問、芸術のような固有の「事柄」をもたない。その意味で政治に固有な領土はなく、むしろ、人間営為のあらゆる領域を横断している。その横断面と接触する限り、経済も学問も芸術も政治的性格を帯びる。政治的なるものの位置づけには二つの危険が伴っている。一つは、政治が特殊の領土に閉じこもることである。そのとき政治は「政界」における権力の遊戯と化する。もう一つの危険は、政治があらゆる人間営為を横断するにとどまらずに、上下に厚みをもって膨張することである。そのとき、まさに政治があらゆる領域に関係するがゆえに、経済も文化も政治に蚕食され、これに呑みこまれる。いわゆる全体主義化である。(丸山真男「対話」1961 年)



あるいはナチの天才理論家シュミットの言葉を拾ってみたりさ、


◼️民主主義における異質な者[Fremde]の排除

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


◼️友敵[Freund-Feind]理論における敵[Feind]=異質な者[Fremde]

政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である[Die spezifisch politische Unterscheidung, auf welche sich die politischen Handlungen und Motive zurückführen lassen, ist die Unterscheidung von Freund und Feind]〔・・・〕


政治上の敵が道徳的に悪である必要はなく、美的に醜悪である必要はない。経済上の競争者として登場するとはかぎらず、敵と取引きするのが有利だと思われることさえ、おそらくはありうる。敵とは、他者・異質な者にほかならず、その本質は、とくに強い意味で、存在的に、他者・異質な者であるということだけで足りる[Der politische Feind braucht nicht moralisch böse, er braucht nicht ästhetisch hässlich zu sein. Er ist eben der andere, der Fremde, und es genügt zu seinem Wesen, dass er in einem besonders intensiven Sinne existentiell etwas anderes und Fremdes ist. ](カール・シュミット『政治的なものの概念』1932年)

政治的な対立は、もっとも強度な、もっとも極端な対立である。いかなる具体的な対立も、それが原点としての友-敵結束に近づけば近づくほど、 ますます政治的なものとなる。

Der politische Gegensatz ist der intensivste und äußerste Gegensatz und jede konkrete Gegensätzlichkeit ist um so politischer, je mehr sie sich dem äußersten Punkte der Freund-Feind-Gruppierung, nähert (カール・シュミット『政治的なものの概念』Carl Schmitt, Der Begriff des Politischen, 1932年)


この民主主義の定義と政治的なものの定義の二つをくっつけると、「デモクラシーは異質な者を排除する友敵システム」だな。


恐怖政治[Terreur]をやったロベスピエールはこう言っている。


デモクラシーの下においてのみ、国家は、それを構成するすべての個人の祖国である[Il n’est que la démocratie où l’État est véritablement la patrie de tous les individus qui le composent ](Robespierre,SUR LES PRINCIPES DE MORALE POLITIQUE QUI DOIVENT GUIDER LA CONVENTION NATIONALE DANS L’ADMINISTRATION INTÉRIEURE DE LA RÉPUBLIQUE, 5 février 1794.)


これは事実上、デモクラシーはナショナリズムだと言っているようなもんだ、異質な者を排除殲滅するね。



あとは自由主義だね、何だろ、リベラリズムって? 個人の自由? 他者への寛容? そんなの嘘っぱちだよ。


ナショナリズムなきリベラリズムは不可能である[Liberalism without nationalism is impossible.]ミアシャイマー『大いなる妄想』2018年 John J. Mearsheimer, The Great Delusion: chapter 4, PDF


ーーだってよ。米国のリベラルデモクラシーを徹底批判するミアシャイマーの近著『大いなる妄想』のこの第4章を読んでみると、実に説得的だね。


で、前回示したフロイトの「ナショナリズムのナルシシズム的性格」を仮に適用すれば、「ナルシシズムなきリベラリズムは不可能[Liberalism without narcissism is impossible]」となるな。実際見てみろよ、リベラリズム信者の顔つきを。みんなとってもナルシシストの風貌してるから。


というわけで、現在の主流イデオロギーであるリベラルデモクラシーは「リベラルナショナリズム」であり「リベラルナルシシズム」だ、異質な他者に不寛容な。ジョン・ロックは、「リベラル社会はリベラルなルールに従わない集団に不寛容だ」と言っているそうだがね、ーー《John Locke also emphasized that liberal societies cannot tolerate groups that do not play by liberal rules. 》(Mearsheimer, The Great Delusion, 2018)


この定義は巷間の自由民主主義信奉者にピッタンコだね。例えば米国Wokeのリベラル教の連中はその典型だな。


何はともあれ、リベラルデモクラシーの名の下にリベラル覇権主義[Liberal Hegemony]を世界に展開した1990年以降、特に21世紀に入ってからの米ネオコンは最悪だよ、お釈迦になってもらわないとな、その信奉者も含め。



典型的なリベラル覇権主義者マデレーン・オルブライト元国務長官ーー宇露戦争を画策したブレジンスキーの弟子、ヌーランドの師匠ーーはこう言った。


私たちが武力を行使しなければならないとしたら、それは私たちがアメリカだからだ。私たちは不可欠な国だ。私たちは背を伸ばしてどの国よりも高い所から未来を見ている。

"if we have to use force, it is because we are America; we are the indispensable nation. We stand tall and we see further than other countries into the future

"  ーーMadeleine Albright on an interview on the “Today Show,”  February 1998


これがナショナリズムでなくて何だろう、そしてナルシシズムでなくて? 




こういう婆さんにイカれてきたのが、日本の「国際政治学者」だよ。


オルブライトは、CBCテレビドキュメンタリー「60ミニッツ」(1996年5月12日)でイラクへの巡航ミサイル攻撃(「砂漠攻撃作戦」Operation Desert Strikeとして知られている)についての質問にこう答えている、


ーー「私たちは50万人の子供たちが死んだと聞いています。それは広島で死んだ子供たちより多いということです。あなたは代価はそれに見合ったものだと思いますか?」


「これはとても難しい選択だと私は思います。でも代価は、ーー私たちは考えます、代価はそれに見合ったものだと(I think this is a very hard choice, but the pricewe think the price is worth it)」。