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2023年8月2日水曜日

些細な差異のナルシシズム[Narzißmus der kleinen Differenzen]

 

フロイトには《些細な差異のナルシシズム[Narzißmus der kleinen Differenzen]》という面白い考察がある。これは比較的よく知られている表現で、英語版Wikipediaにも「the narcissism of minor differences」の項があり、こう説明されている。


精神分析では、小さな違いのナルシシズム(ドイツ語:der Narzissmus der kleinen Differenzen)とは、人間関係や共同体が共通点を共有すればするほど、そこにいる人々は互いに感じられる些細な違いに過敏になるため、対人関係の確執や相互嘲笑を起こしやすくなるという考え方である。

In psychoanalysis, the narcissism of small differences (German: der Narzissmus der kleinen Differenzen) is the idea that the more a relationship or community shares commonalities, the more likely the people in it are to engage in interpersonal feuds and mutual ridicule because of hypersensitivity to minor differences perceived in each other.


上にあるように、差別のメカニズムを巧みに説きうる考察のひとつであり、日本においてなら、いじめや嫌韓嫌中の現象をこの「些細な差異のナルシシズム」にて上手く解釈しうる。


さて、ここではまずフロイトの記述をその前後も含めて引用しよう。



人間性の不滅の特徴である攻撃性向…人間にとってこの自分の攻撃性向を断念するのが容易でないことは明らかである。そんなことをすれば、どうにも気持が落ち着かないのだ。比較的小さな文化圏には、自分の文化圏に属さない人間を敵視することでこの攻撃欲動を発散できるという利点があるが、この利点はなかなか重要である。攻撃の対象になりうる他人が残存しているかぎり、 かなりの数の人間を相互に愛で結びつけることはつねに可能だ。


der unzerstörbare Zug der menschlichen Natur(…) Es wird den Menschen offenbar nicht leicht, auf die Befriedigung dieser ihrer Aggressionsneigung zu verzichten; sie fühlen sich nicht wohl dabei. Der Vorteil eines kleineren Kulturkreises, daß er dem Trieb einen Ausweg an der Befeindung der Außenstehenden gestattet, ist nicht geringzuschätzen. Es ist immer möglich, eine größere Menge von Menschen in Liebe aneinander zu binden, wenn nur andere für die Äußerung der Aggression übrigbleiben. 


まえに私は、スペイン人とポルトガル人、北ドイツ人と南ドイツ人、イギリス人とスコットランド人など、隣同士であり、その他の点でもたがいに類似した人間集団に限ってかえってたがいに敵視しあい蔑視しあうという現象を研究したことがある。私はこの現象を「些細な差異のナルシシズム」と呼んだが、この名称そのものはこの現象の解明には大して役に立たない。ところでこの現象の中には、それによってその人間集団の構成員相互の団結が容易になるという、攻撃性向の安易かつ比較的無害な充足が認められる。


Ich habe mich einmal mit dem Phänomen beschäftigt, daß gerade benachbarte und einander auch sonst nahestehende Gemeinschaften sich gegenseitig befehden und verspotten, so Spanier und Portugiesen, Nord- und Süddeutsche, Engländer und Schotten usw. Ich gab ihm den Namen »Narzißmus der kleinen Differenzen«, der nicht viel zur Erklärung beiträgt. Man erkennt nun darin eine bequeme und relativ harmlose Befriedigung der Aggressionsneigung, durch die den Mitgliedern der Gemeinschaft das Zusammenhalten erleichtert wird. 


世界中にちらばっているユダヤ民族は、このようにして、自分たちが住んでいる国々の文化にたいして顕著な貢献をしてきた。ところが残念なことに、あれほどたくさんのユダヤ人虐殺が行なわれたにもかかわらず、中世という時代は、キリスト教徒たちにとって、それ以前の時代より平和でも安全でもなかった。 使徒パウロが普遍的な人類愛を自分のキリスト教教会の基礎にした以上、キリスト教徒以外の人間にたいする極度の不寛容はその必然の結果だった。国家の基礎を愛に求めなかったローマは、宗教は国家のものであり国家は宗教びたしになっていたにもかかわらず、宗教的不寛容とは無縁に終わった。


Das überallhin versprengte Volk der Juden hat sich in dieser Weise anerkennenswerte Verdienste um die Kulturen seiner Wirtsvölker erworben; leider haben alle Judengemetzel des Mittelalters nicht ausgereicht, dieses Zeitalter friedlicher und sicherer für seine christlichen Genossen zu gestalten. Nachdem der Apostel Paulus die allgemeine Menschenliebe zum Fundament seiner christlichen Gemeinde gemacht hatte, war die äußerste Intoleranz des Christentums gegen die draußen Verbliebenen eine unvermeidliche Folge geworden; den Römern, die ihr staatliches Gemeinwesen nicht auf die Liebe begründet hatten, war religiöse Unduldsamkeit fremd gewesen, obwohl die Religion bei ihnen Sache des Staates und der Staat von Religion durchtränkt war. 


ゲルマン人による世界征服の野望がその一環としてユダヤ人排斥を呼号したのも、理解に苦しむような偶然ではなかったし、ロシアにおいて新しい共産主義文化を建設しようという試みがブルジョアジー迫害によって心理的に支えられていることも、充分理解できる現象だ。ただちょっと心配なのは、ソヴィエトでブルジョアジーが根こそぎにされたあと果して何が起こるだろうかという点である。


Es war auch kein unverständlicher Zufall, daß der Traum einer germanischen Weltherrschaft zu seiner Ergänzung den Antisemitismus aufrief, und man erkennt es als begreiflich, daß der Versuch, eine neue kommunistische Kultur in Rußland aufzurichten, in der Verfolgung der Bourgeois seine psychologische Unterstützung findet. Man fragt sich nur besorgt, was die Sowjets anfangen werden, nachdem sie ihre Bourgeois ausgerottet haben.

(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第5章、1930年)





この1930年のフロイト論文における《些細な相違のナルシシズム[Narzißmus der kleinen Differenzen]》は、1927年の『ある錯覚の未来』Die Zukunft einer Illusion(旧訳『ある幻想の未来』)では、より一般化した形で、自国文化の《ナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]》、《文化理想が与えるナルシシズム的満足[Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal ]》とある。これらは、愛国心あるいはナショナリズムのナルシシズム的性格、と言い換えうるだろう。



ところで、とかくわれわれは、ある文化が持っているさまざまの理想ーーすなわち、最高の人間行為、一番努力に値する人間行動は何かという価値づけーーをその文化の精神財の一部とみなしやすい。すなわち、一見したところ、その文化圏に属する人間の行動はこれらの理想によって方向づけられるような印象を受けるのである。ところが真相は、生まれつきの素質とその文化の物的環境との共同作業によってまず最初の行動が生じ、それにもとづいて理想が形成されたあと、今度はこの理想が指針となって、それらの最初の行動がそのまま継続されるという逆の関係らしい。


したがって、理想が文化構成員に与える満足感は、自分がすでに行なってうまくいった行動にたいする誇りにもとづくもの、つまりナルシシズム的性格[narzißtischer Natur]のものである。この満足感がもっと完全になるためには、ほかのさまざまな文化ーーほかのタイプの人間行動を生み出し、ほかの種類の理想を発展させてきたほかのさまざまな文化――と自分との比較が必要である。どの文化も「自分には他の文化を軽蔑する当然の権利がある」と思いこんでいるのは、文化相互のあいだに認められるこの種の相違にもとづく。このようにして、それぞれの文化が持つ理想は、異なる文化圏のあいだの軋轢と不和の種になるのであり、このことは、国家と国家のあいだの現状に一番はっきりとあらわれている。


Die Befriedigung, die das Ideal den Kulturteilnehmern schenkt, ist also narzißtischer Natur, sie ruht auf dem Stolz auf die bereits geglückte Leistung. Zu ihrer Vervollständigung bedarf sie des Vergleichs mit anderen Kulturen, die sich auf andere Leistungen geworfen und andere Ideale entwickelt haben. Kraft dieser Differenzen spricht sich jede Kultur das Recht zu, die andere geringzuschätzen. Auf solche Weise werden die Kulturideale Anlaß zur Entzweiung und Verfeindung zwischen verschiedenen Kulturkreisen, wie es unter Nationen am deutlichsten wird. 


文化理想が与えるこのナルシシズム的満足はまた、同一文化圏の内部でのその文化にたいする敵意をうまく抑制するいくつかの要素の一つでもある[Die narzißtische Befriedigung aus dem Kulturideal gehört auch zu jenen Mächten, die der Kulturfeindschaft innerhalb des Kulturkreises erfolgreich entgegenwirken]。


つまり、その文化の恩恵を蒙っている上層階級ばかりではなく、抑えつけられている階層もまた、他の文化圏に属する人たちを軽蔑できることのなかに、自分の文化圏内での不利な扱いにたいする代償が得られるという点で、その文化の恩恵に浴しうるのである。「なるほど自分は、借金と兵役に苦しんでいる哀れな下層階級にはちがいない。でもそのかわり、自分はやはりローマ市民の一人で、 他の諸国民を支配自分の意のままに動かすという使命の一端をになっているのだ」というわけである。 しかし、抑えつけられている社会階層が自分たちを支配し搾取している社会階層と自分とをこのように同一化することも、さらに大きな関連の一部にすぎない。すなわち、この社会階層の人々は、一方では敵意を抱きながらも、他面においては、感情的にも支配階層に隷属し、支配階層を自分たちの理想と仰ぐことも考えられるのだ[Anderseits können jene affektiv an diese gebunden sein, trotz der Feindseligkeit ihre Ideale in ihren Herren erblicken. ]。基本的には満足すべきものであるこの種の事情が存在しないとするならば、大多数を占める人々の正当な敵意にもかかわらず、多数の文化圏がこれほど長く存続してきたことは不可解という他はあるまい。(フロイト『ある錯覚の未来』第2章、1927年)




この愛国心のナルシシズム的性格(ナショナリズムのナルシシズム的性格)はーー、そもそもフロイトにおいて愛の共同体は不寛容を生むものである。『集団心理学と自我の分析』には次のようにある。


◼️愛の宗教の信者共同体における所属外の人に対する不寛容

信者の共同体[Glaubensgemeinschaft]…そこにときに見られるのは他人に対する容赦ない敵意の衝動[rücksichtslose und feindselige Impulse gegen andere Personen]である。〔・・・〕

宗教は、たとえそれが愛の宗教[Religion der Liebe ]と呼ばれようと、所属外の人たちには過酷で無情[hart und lieblos]なものである。もともとどんな宗教でも、根本においては、それに所属するすべての人びとにとっては愛の宗教であるが、それに所属していない人たちには残酷で不寛容 [Grausamkeit und Intoleranz ]になりがちである。


darum muß eine Religion, auch wenn sie sich die Religion der Liebe heißt, hart und lieblos gegen diejenigen sein, die ihr nicht angehören. Im Grunde ist ja jede Religion eine solche Religion der Liebe für alle, die sie umfaßt, und jeder liegt Grausamkeit und Intoleranz gegen die Nichtdazugehörigen nahe. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、1921年)



この不寛容は何も愛の宗教に限定されない。


まず集団とは自我理想を通して形成される。


◼️自我理想を通した同一化による集団形成

原初的集団は、同一の対象を自我理想の場に置き、その結果おたがいの自我において同一化する集団である。Eine solche primäre Masse ist eine Anzahl von Individuen, die ein und dasselbe Objekt an die Stelle ihres Ichideals gesetzt und sich infolgedessen in ihrem Ich miteinander identifiziert haben.(フロイト『集団心理学と自我の分析』第8章、1921年)

(※注:《自我理想は父の代理[Ichideals …ist ihnen ein Vaterersatz.]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第5章、摘要、1921年)であり、事実上、ラカンの父の名である。)



集団心理の基本とファシズム



さらに自我の理想を通した同一化は、理想である必要さえない。憎悪の対象を通した集団形成もある、かつてのナチがユダヤ人憎悪を通して結束化(ファシズム化)したように。


◼️憎悪対象を通した同一化による集団形成

指導者や指導的理念が、いわゆるネガティヴの場合もあるだろう。特定の個人や制度にたいする憎悪は、それらにたいする積極的依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結びつきを呼び起こしうる。Der Führer oder die führende Idee könnten auch sozusagen negativ werden; der Haß gegen eine bestimmte Person oder Institution könnte ebenso einigend wirken und ähnliche Gefühlsbindungen hervorrufen wie die positive Anhänglichkeit. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第6章)



上に感情的結びつき[Gefühlsbindungen]とあるが、これこそ愛の結びつきである。


われわれは愛の結びつき[Liebesbeziehungen](あたりさわりのない言い方をすれば、感情的結びつき[Gefühlsbindungen])が集団精神の本質をなしているという前提に立って始める。

Wir werden es also mit der Voraussetzung versuchen, daß Liebesbeziehungen (indifferent ausgedrückt: Gefühlsbindungen) auch das Wesen der Massenseele ausmachen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


この結びつき[bindungen]は、ファッショ(束、集団、結束)あるいは語源のラテン語「ファスケス」(fasces、束桿)と基本的には等価である。すなわち憎悪を通した感情的結束=愛の結束は愛のファシズムである。



フロイトの集団心理学は、ヒトラー大躍進の序文である。人はみなこの種の虜になり、群衆[foule]と呼ばれるものが集団になっての捕獲[la prise en masse]、ゼリー状の捕獲になるのではないか?

FREUD …la psychologie collective…préfaçant la grande explosion hitlérienne…pour que chacun entre dans cette sorte de fascination qui permet la prise en masse, la prise en gelée de ce qu'on appelle une foule ?(Lacan, S8, 28 Juin 1961)



ナチスのファシズムが例外事例だと見做してはならない。憎悪を通した集団形成があれば、すぐさまネオナチが生じる。この一年半のあいだにも、ロシアフォビア、ロシア嫌悪による集団的西側の姿をファシズムと呼ばずにほかに何と呼ぼう?ーー、《ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう[La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia]》(フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年)

……………

さて「ナショナリズムのナルシシズム的性格」について別の話をしたかったのだが、つまりここまでは前段のつもりだったのだが、長くなった。その話については、また別の投稿とするつもりである(と記すと、その別稿を書きたくなくなる癖が私にはあり、「たぶん、そのうちに」とのみしておこう)。