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2023年8月22日火曜日

過去の亡霊の回帰としての「ヨーロッパ征服の回帰」

 


以前にも引用したことがあるが、柄谷行人は「革命と反復(Revolution and Repetition)」と題された2008年の英語論文ーー日本語になっているのかもしれないが私は知らないーーでこう言っている。


マルクスは、『ルイ・ポナパルドのブリュメールの十八日』にて、フランス革命によって実現された共和制から生れた皇帝制の出現のなかに反復を見出している。1789年の革命において、王は処刑されて、それに引き続く共和制から、人びとの支持をともなって「皇帝」が出現した。これは、フロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼ぶものである。

in The Eighteenth Brumaire of Louis Bonaparte, Marx finds repetition in the emergence of the empire out of the republic realized by the French Revolution. 

In the Revolution of 1789, the King was executed and the Emperor emerged from the subsequent republic with the people's support. This is what Freud called the “return of the repressed.” Yet, the Emperor is the return of the murdered king, but is no longer the king himself. (Kojin Karatani,Revolution and Repetition, 2008, 私訳)



柄谷はこの「抑圧された皇帝の回帰」は、ナポレオンの回帰、ヨーロッパ共同体の原型の回帰、あるいはヨーロッパ征服の回帰とも言っている。


ナポレオンの構想は、ヨーロッパ共同体の原型とも言えるが、歴史のこの時点では、ヒトラーの第三帝国の前身であるヨーロッパ征服と見るのが妥当であろう。


 Napoleon’s concept could be called a prototype of the European Union, but at this point in history, his scheme could be more properly seen as the precursor of Hitler’s Third Reich: the conquest of Europe.(柄谷行人「革命と反復」2008年、私訳)



これらの「抑圧されたものの回帰」は、マルクス自身の表現なら「過去の亡霊の回帰」だ。


ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的な事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度目は偉大な悲劇[Tragödie]として、二度目はみじめな笑劇[Farce]として、と。〔・・・〕


人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分が選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の下でそうする。すべての死せる世代の伝統が悪夢のように生きているものの思考にのしかかっている。そして、生きている者たちは、自分自身と事態を根本的に変革し、いままでになかったものを創造する仕事を携わっているように見えるちょうどそのときでさえ、まさにそのような革命的危機の時期に、不安そうに過去の亡霊[Geister der Vergangenheit]を呼び出して自分のたちの役に立てようとし、その名前、鬨の声、衣装を借用して、これらの由緒ある衣装に身を包み、借り物の言葉で、新しい世界史の場面を演じようとしているのである。(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)



しかし、どうしてこうもあからさまに起こってしまったんだろう、現在のヨーロッパ共同体は、「ナチスの回帰」にしか見えないし、先の柄谷の言い方なら、ナポレオンの回帰、ヨーロッパ共同体の原型の回帰、あるいはヨーロッパ征服の回帰と言いうる。


さらにカストロの言い方なら、民主主義の衣装を着たファシズムの回帰だ。


ヨーロッパで起きる次の戦争はロシア対ファシズムだ。ただし、ファシズムは民主主義と名乗るだろう[La próxima guerra en Europa será entre Rusia y el fascismo, pero al fascismo se le llamará democracia](フィデル・カストロ Fidel Castro、Max Lesnikとの対話にて、1990年)





ちなみにフロイトの抑圧とは、不快に対する回避=逃避=防衛である。


抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年)

抑圧は逃避の試みと等価である[Einem solchen Fluchtversuch gleichwertig ist auch die Verdrängung.](フロイト『制止、症状、不安』第2章、1926年)

私は(『防衛―神経精神病』1894年で使用した)防衛過程[Abwehrvorganges]概念のかわりに、後年、抑圧[Verdrängung]概念へと置き換えたが、この両者の関係ははっきりしない。現在私はこの防衛[Abwehr]という古い概念をまた使用しなおすことが、たしかに利益をもたらすと考える。

Ich meine den des Abwehrvorganges [Fußnote]Siehe: ›Die Abwehr-Neuropsychosen«.. Ich ersetzte ihn in der Folge durch den der Verdrängung, das Verhältnis zwischen beiden blieb aber unbestimmt. Ich meine nun, es bringt einen sicheren Vorteil, auf den alten Begriff der Abwehr zurückzugreifen, (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926 年)


そして不快とは快原理の彼岸にある欲動である。


欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang](フロイト『制止、症状、不安』第9章)


つまり、不快に対する回避=逃避=防衛としての「抑圧されたもの」とは抑圧された欲動にほかならない。

抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。

Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer)

(フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)


この「束縛を排して休みなく前へと突き進む」が、歴史の構造とそれにともなう出来事にもほんとうに当てはまるか否かが当面の問いだ。上に見たように柄谷は当てはめている。


もしこれを仮に現在の状況に敷衍して言えば、1945年以降、欧米は「ヒトラーなる不快」の代理形成と反動形成と昇華をしてきたのだろう。だが三四半世紀後の現在、その抑圧された不快が回帰した、という言い方ができる。これが、マルクス曰くの「過去の亡霊の回帰」、柄谷曰くの「ヨーロッパ征服の回帰」、カストロ曰くの「ファシズムの回帰」のフロイト風言い方である。最後のフロイトの言い方なら、ダム崩壊である、ーー《抑圧は、水の圧力に対するダムのように振る舞う[Die Verdrängungen benehmen sich wie Dämme gegen den Andrang der Gewässer. ]》(フロイト『終りある分析と終りなき分析』 第3章、1937 年)


……………


最後に柄谷は出来事ではなく構造、反復構造を強調していることをつけ加えておこう。


私は歴史の反復があると信じている。そしてそれは科学的に扱うことが可能である。反復されるものは、確かに、出来事ではなく構造、あるいは反復構造である。驚くことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて現われる。しかしながら、反復され得るのは反復構造のみである。

I believe that there is a repetition of history, and that it is possible to treat it scientifically. What is repeated is, to be sure, not an event but the structure, or the repetitive structure. Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well. However, it is only the repetitive structure that can be repeated.( Kojin Karatani, "Revolution and Repetition" 2008, PDF 私訳)

表象が実際の反復となるのは、過去と現在の間に構造的な類似性があるときだけである。つまり、各個人の意識を超越したネーションに固有の反復構造があるときである。

Representation becomes actual repetition only when there is a structural similarity between the past and the present, that is to say, only when there is a repetitive structure inherent to the nation that transcends the consciousness of each individual.(柄谷行人「革命と反復」2008年、私訳)