ーーだな、《汚染処理水に疑問を呈することが「非科学的」という、まったく非科学的な言説がばらまかれています》。これをマガオで言ってる「知識人」がウヨウヨいるからな。
さらに言えば、もともと科学は非科学だろ? 《われわれの科学への信頼は、依然として形而上学的信念に基づいている[daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht] 》(ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年)
◼️科学はレトリック |
T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収、1983年) |
ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年) |
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◼️物理学の仮象が物理学者を決定づける |
物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](Lacan, S16, 20 Novembre 1968) |
言説はそれ自体、常に仮象の言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
◼️世界は仮象であり解釈である |
物理学とは世界の配合と解釈にすぎない[dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung](ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年) |
「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない…[Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzugelogen... ](ニーチェ『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年) |
現象[Phänomenen]に立ちどまったままで《あるのはただ事実のみ [es giebt nur Thatsachen]》と主張する実証主義[Positivismus] に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実はなく、あるのはただ解釈のみ[nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen] と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。〔・・・〕 総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義」。 [Soweit überhaupt das Wort »Erkenntnis« Sinn hat, ist die Welt erkennbar: aber sie ist anders deutbar, sie hat keinen Sinn hinter sich, sondern unzählige Sinne. – »Perspektivismus.«](ニーチェ『力への意志』1886/87) |
◼️確信は嘘である |
確信は嘘にもまして危険な真理の敵ではなかろうかとは、すでに長いこと私の考慮してきたところのことであった[Es ist schon lange von mir zur Erwägung anheimgegeben worden, ob nicht die Überzeugungen gefährlichere Feinde der Wahrheit sind als die Lügen ](『人間的、あまりに人間的』第1部483番)。 このたびは私は決定的な問いを発したい、すなわち、嘘と確信とのあいだには総じて一つの対立があるのであろうか? [Diesmal möchte ich die entscheidende Frage tun: besteht zwischen Lüge und Überzeugung überhaupt ein Gegensatz? ] ――全世界がそう信じている、しかし全世界の信じていないものなど何もない! [― Alle Welt glaubt es; aber was glaubt nicht alle Welt! ] ――それぞれ確信は、その歴史を、その先行形式を、その模索や失敗をもっている。長いこと確信ではなかったのちに、なおいっそう長いことほとんど確信ではなかったのちに、それは確信となる。 えっ? 確信のこうした胎児形式のうちには嘘もまたあったかもしれないのではなかろうか?[Wie? könnte unter diesen Embryonal-Formen der Überzeugung nicht auch die Lüge sein? ] ――ときおり人間の交替を必要とするだけのことである。すなわち父の代にはまだ嘘であったものが、子の代にいたって確信となるのである。(ニーチェ『反キリスト者』第55節、1888年 |
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いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ](『彼自身によるロラン・バルト』1975年) |
これらを「穏やかに」言えば、次のことだよ。
◼️科学の方法 |
私は、科学は一つのネットワークを成していて、ある命題が科学に属するかどうかということは、このネットワークに属するかどうかで決まると考えている。それは、ポール・ディージングという科学哲学者の考えから出発している。彼は、科学の方法論を四つにわけて、どれも他に優先するものではないとした。私は、彼の四つの方法が相互にからみあっているということを付け加える。その四つの方法論とは①モデルづくり、②実験、③統計、④事例研究である。 |
②の実験は科学の王であるという固定観念があって、クロード・ベルナールの『実験医学序説』の影響が大きいわが国では特にそうであるが、実験とは条件をできるだけ簡略化して、数え上げられる範囲の僅かな変数だけで規定される場にだけ可能である。実験の場はそれだけ「現実離れ」している。〔・・・〕場合によっては、この簡略化が大きな偏りのもととなる。〔・・・〕 |
③の統計的方法は、ランダム・サンプリングや二重盲検法やマッチングを使って対象を(近似的に)等質化したと仮定するところに成り立っている。〔・・・〕 ①のモデルづくりには事実にもとづく個別性が強い意識的な実験モデルから始まって、しばしば美学(あるいはそのくつがえし)に導かれる大局モデル(たとえば「セントラル・ドグマ」)から、個人の意識を超えたパラダイム(トーマス・クーンの意味での)までがあるが、これらのモデルの導きなくして科学の門を叩いた者は遠くまで歩めない、いや、多くの科学者はモデルの魅力にひかれて科学者となる。 |
このように、これらの方法は相互浸透的で、全体としてひとつのネットワークを作っている。たとえばモデルはしばしばある事例、統計、実験結果からヒントを得る、逆も真である。 ここで④の事例研究が確固たる方法論の一つに挙げられていることに首をひねる向きもあるだろう。これは「一つだけしか存在しないものに対する科学はありうるか」という問題に置き換えればわかりやすいだろう。…… (中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」2002年) |
逆に「シニカルに」言えば、次の蓮實だね |
解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景をこえて」『表層批判宣言』1979年) |
不幸にも知的退行の21世紀にはほとんど誰も知らなくなっちまったがね |
私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」初出2000年『時のしずく』所収) |
怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法とは何か」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
世界は進歩したんだよ |
フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに愚かさも進歩する! ということです。Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès ! |
(クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収) |
これからもマスマス進歩していくだろうよ
で、どこに向かうかってのは、海へ向かうんだろうよ、とくにムラ社会日本は。 |
強迫的な農耕社会…彼らの大間題の不認識、とくに木村の post festum(事後=あとの祭)的な構えのゆえに、思わぬ破局に足を踏み入れてなお気づかず、彼らには得意の小破局の再建を「七転び八起き」と反復することはできるとしても、「大破局は目に見えない」という奇妙な盲点を彼らが持ちつづけることに変わりはない。そこで積極的な者ほど、盲目的な勤勉努力の果てに「レミング的悲劇」を起こすおそれがある--この小動物は時に、先の者の尾に盲目的に従って大群となって前進し、海に溺れてなお気づかぬという。(中井久夫『分裂病と人類』第1章、1982年) |
労働集約的な農業はムラ人の密接な協力を必要とし、協力は共通の地方心信仰やムラ人相互の関係を束縛する習慣とその制度化を前提とする。この前提、またはムラ人の行動様式の枠組は、容易に揺らがない。それを揺さぶる個人または少数集団がムラの内部からあらわれれば、ムラの多数派は強制的説得で対応し、それでも意見の統一が得られなければ、「村八分」で対応する。いずれにしても結果は意見と行動の全会一致であり、ムラ全体の安定である。(加藤周一『日本文化における時間と空間』2007年) |
汚染処理水流したら中国が厳格な対応するのは最初からわかってたわけでね、何度も警告してたんだから。日本の中枢もわかってたよ、しっかりと。中国と戦争して束の間の金儲けしたい連中がウヨウヨいるからな、ヤツらだけは海に溺れないつもりでいるらしいがね。