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2023年8月10日木曜日

サントームは超自我の別の名[Le sinthome est un autre nom du Surmoi ]

 


S(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳を見い出しうる[S(Ⱥ) …on pourrait retrouver une transcription du surmoi freudien. ](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)

シグマΣ、サントームのシグマは、シグマとしてのS(Ⱥ) と記される[c'est sigma, le sigma du sinthome, …que écrire grand S de grand A barré comme sigma] (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 6 juin 2001)


この二文の穴のシニフィアンS(Ⱥ) の定義を軸にして組み合わせれば、


サントームは超自我の別の名[Le sinthome est un autre nom du Surmoi ]

ーーとなるな。


これは一見奇妙かもしれないが、サントームは現実界の症状(トラウマの症状)であり、固着だ。


サントームは固着の反復である。サントームは反復プラス固着である[le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)


つまり、固着は超自我の別の名[La fixation est un autre nom du Surmoi ]

ーーとなる。


これはフロイトにある。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着され、そこで自己破壊的に作用する[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert und wirken dort selbstzerstörend]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)




さらにサントームはモノの名だ。

ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens]。ラカンはこのモノをサントームと呼んだのである。サントームはエスの形象である[ce qu'il appelle le sinthome, c'est une figure du ça ] (J.-A.MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 4 mars 2009)


モノとは母だ。

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.   ](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)


要するに、サントームは母の別の名[le sinthome est un autre nom de la Mère]となる(より詳しくは「母の名について」を参照)。


ラカンはこう言っている。

問題となっている女なるものは、神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)

人が一般的に神と呼ぶもの、それは超自我と呼ばれるものの作用である[on appelle généralement Dieu …, c'est-à-dire ce fonctionnement qu'on appelle le surmoi.] (Lacan, S17, 18 Février 1970)


この二文を組み合わせれば、


女なるものは超自我の別の名[La femme est un autre nom de Dieu]となる。


ただしこの女なるものは母なる女だ。


(原初には)母なる女の支配がある。語る母・幼児が要求する対象としての母・命令する母・幼児の依存を担う母が。女なるものは、享楽を与えるのである、反復の仮面の下に。[…une dominance de la femme en tant que mère, et :   - mère qui dit,  - mère à qui l'on demande,  - mère qui ordonne, et qui institue du même coup cette dépendance du petit homme.  La femme donne à la jouissance d'oser le masque de la répétition. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)


つまり、母は超自我の別の名[La mère est un autre nom de Dieu]だ、➡︎母は超自我文献」参照。


以上、サントーム=固着=モノ=母=超自我ゆえに、


サントームは超自我の別の名[Le sinthome est un autre nom du Surmoi ]は正しい。


サントーム=固着は、より厳密に言えば、母へのリビドー固着の残滓[Rest der Libidofixierung an die Mutter]であり、固着の残滓とは固着のエスへの置き残しであり、原抑圧だ。フロイトはこれをエスの欲動蠢動(無意識のエスの反復強迫)としての異者身体の症状[Symptom als einen Fremdkörper]とも呼んだ。つまり現実界の症状サントームは異者身体の症状、あるいは異者身体への固着ともしうる[参照]。




ーー超自我は先に示したように固着、原抑圧も固着であり、両者は等価である。



超自我と原抑圧を一緒にするのは慣例ではないように見える。だが私はそう主張する。私は断固としてそう言い、署名する。 Ca ne paraît pas habituel que le surmoi et le refoulement originaire puissent être rapprochés, mais je le maintiens. Je persiste et je signe.〔・・・〕

あなたがたは盲目的でさえ見ることができる、超自我は原抑圧と合致しうしるのを。実際、古典的なフロイトの超自我は、エディプスコンプレクスの失墜においてのみ現れる。それゆえ超自我と原抑圧との一致がある。Vous voyez bien que, même à l'aveugle, on est conduit à rapprocher le surmoi du refoulement originaire. En effet, le surmoi freudien classique n'émerge qu'au déclin du complexe d'OEdipe, et il y a donc une solidarité du surmoi et du refoulement originaire.  (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



ボクはかなり前から繰り返してんだがな、4年前にも曖昧な形だが、「サントームは超自我の別の名」という投稿してるよ、そのときはミレールの上の文を知らなかったから疑心暗鬼の記述だが。


ま、何はともあれ前回掲げた作家の名、バタイユ、ニーチェ、折口信夫、夏目漱石、坂口安吾、古井由吉は、母なる超自我に振り回された人生を送った人たちじゃないかね、つまり母へのリビドー固着の反復強迫に悩まされた作家だろうよ。前々回の室生犀星ももちろん。逆にそうでない作家がいるんだろうか、まともな作家で?


超自我とサントームの穴ȺのシニフィアンS(Ⱥ) は、トラウマのシニフィアンのことだ。ーー《人はみなトラウマ化されている。 この意味はすべての人にとって穴があるということである[tout le monde est traumatisé …ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou]》(J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )




もちろんトラウマは母なるトラウマには限らないが、フロイトの臨床分析のもとでは、トラウマ体験は過去のトラウマを呼び起こす。


経験された寄る辺なき状況をトラウマ的状況と呼ぶ 。〔・・・〕そして自我が寄る辺なき状況が起こるだろうと予期する時、あるいは現在に寄る辺なき状況が起こったとき、かつてのトラウマ的出来事を呼び起こす。

eine solche erlebte Situation von Hilflosigkeit eine traumatische; (…) ich erwarte, daß sich eine Situation von Hilflosigkeit ergeben wird, oder die gegenwärtige Situation erinnert mich an eines der früher erfahrenen traumatischen Erlebnisse. (フロイト『制止、症状、不安』第11章、1926年)


そして原トラウマ(原不安)は母への原固着[ »Urfixierung«an die Mutter ]であり、その回帰があると。


結局、成人したからといって、原トラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


犀星の言うように《自分をあばくことで他をもほじくり返し、その生涯のあいだ、わき見もしないで自分をしらべ、もっとも身近かな一人の人間を見つづけてきたのである》(『杏っ子』後書、1957年)なら、原ブラックホールに向かうんじゃないか、真の作家は。


なお誤解のないようつけ加えておけば、フロイトラカンにおける幼児期のトラウマとは身体の出来事への固着、あるいは愛の喪失[ Liebesverlust](ラカンの享楽の喪失[Déperdition de jouissanceを意味し、通常の事故によるトラウマとは異なるので注意。