このところ安吾をいくらか読み返してるんだが、「安吾の新日本地理 宝塚女子占領軍」で実にウマいこと書いてるね、
女の子が男役をやる、ということも、男の子が女役をやる以上に変なところはないでしょう。男だけのカブキが畸形でないなら、宝塚も畸形ではなかろう。宝塚が畸形ならカブキも畸形にきまってます。 むしろ、男が女役をやり、女が男役をやる、ということは、それも一ツの本筋ではないでしょうか。本筋といいきってはいけないかも知れないが、その存在が別にフシギではないということだ。 |
近代のリアリズムにはそぐわないかも知れないが、リアリズムの基盤にも美をおき、美的感動によって自らを支えるような芸術にとって、劇にとって、異性に扮することは不自然でも不都合でもない。同性は各自の短所に着目し合って、その長所に対しては酷であり、イビツでもあり、ひねくれがちであるが、異性に対しては誰しもアコガレ的な甘ッたるい感情を支えとして見ているのは当り前の話。理想的な長所というものは異性だけが見ているものだ。 |
長所に扮するということは芸術本来の約束から云っても正当なものであるし、同性に扮する場合は、扮しなくとも自ら一個の同性であるという弱身があるが、異性に扮するにはトコトンまで己れを捨てて扮しきる必要がある。これも亦、芸術本来の精神に即するもので、たとえ同性に扮するにもトコトンまで扮しなければならぬ。舞台の上に新しく生れた一人物になりきって、己れの現身を捨てきらねばならぬ。舞台の芸術はそういうものだが、異性に扮することは、すでに出発からそのタテマエに沿うているのだ。 自分が女であるために「女」に扮することを忘れている女優は多い。むろん男優もそうである。ダイコン役者はそういうものだ。 そういうダイコン女優は自分の女を恃みにするから、舞台の上で一人の女になることもできないし、ナマの自分も出しきれない。だから楽屋ではずいぶん色ッぽい女だが、舞台では化石のような女でしかない。 |
ところが、女形や人形使いは、はじめから女になりきらねばならないのだし、ナマの現身がないのであるから、そもそも芸が女に「なる」女に扮することから出発する。これは有利なことでしょう。人間誰しも異性の長所というものは、本能的な理想として所有するものでもありそれが真善美の秘密の支えでもあるのだから、異性に扮し表するところの女らしさ、男らしさは全人格的な活動によって完成されるものであり、また純粋でもありましょう。 女形の色気、色ッぽさが女優以上であるのはフシギではないが、人形の色気がそれ以上にしみるような深い綾を表するのは、女になる前にさらに人間にならねばならないのだから、そもそも芸の出発が人間のタマシイやイノチを創ったり身にこめたりするところから始まらなければならないのだもの、舞台の上に生まれて生きることから始まるのだもの、ナマの身をもつ人間よりも純粋に人間になりきれるのは当然でありましょう。 |
(坂口安吾「安吾の新日本地理 宝塚女子占領軍――阪神の巻――」1951年) |
蚊居肢子は4、5年前までツイッターやってたんだが、2010年前後の当初数年は「男として」囀っていたがどうも居心地が悪くなって、「女として」囀るようになって爽快な風が吹いたね。どうだい、みなさんもやってみたら?
どうせ人はみな役者にすぎないのだから、「意図せざる役者」より、理想の男・理想の女の「意図した役者」のほうがずっといいよ、 |
この世界はすべてこれひとつの舞台、人間は男女を問わず、すべてこれ役者にすぎぬ[All the world's a stage, And all the men and women merely players.](シェイクスピア「お気に召すまま」) |