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2023年9月16日土曜日

真珠貝の法話

 

天然真珠は砂粒などの異物を覆うことで生み出される。


もともと真珠は、貝の体内に砂などの異物が、偶然にも外套膜と呼ばれる貝殻をつくる組織と一緒に入り込んだときに生まれるもの。外套膜が真珠質(炭酸カルシウム) を出して、異物を包み込んだものが天然真珠なのです。(UWAJIMAN

LETTER 愛媛・宇和島


フロイトは真珠と砂粒の比喩を、私の知る限りで、三度使っている。

真珠を形成する貝の周りの砂粒 [das Sandkorn also, um welches das Muscheltier die Perle bildet](フロイト『症例ドラ』1905年)

真珠の核にある砂粒[das Sandkorn im Zentrum der Perle]( フロイト『自慰論』1912年)

真珠層で貝が覆う砂粒 [Sandkorns, welches das Muscheltier mit den Schichten von Perlmuttersubstanz](フロイト『精神分析入門』第24章、1917年)


この砂粒がフロイトにとっても異物=異者としての身体であり、身体の出来事としてのトラウマである。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体 [Fremdkörper] のように作用する[das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt](フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)

トラウマは自己身体の出来事もしくは感覚知覚である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen](フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)

※より詳しくは➡︎「真珠と砂粒」=「症状とサントーム」


4年ほど前、仏教系の方のブログで、「真珠貝の法話」の話を拾ったことがある。現在はリンク元が削除されているようだが、ここではそのまま引用する。



■「真珠貝に学ぶ

天然の真珠は一体どのようにして誕生するのでしょうか。


ある書物に次のような説明がされていました。


真珠貝と呼ばれる貝(主にアコヤ貝)は普段、砂の中で生息しています。すると、海水と一緒に砂や泥を吸い込みます。そういう異物が入ると貝は嫌がって吐き出そうとします。


たいていの異物は吐き出せるのですが、時たま、尖った石のかけらなどが入ってくることがあるそうです。貝は痛いので懸命に吐き出そうとするのですが、どうしても吐き出せない時があるそうです。


そんな時は致し方ありません。貝はその異物を体の中に保つしかありません。


ところが、ここからが真珠貝の素晴らしいところなのです。


痛みに耐えながらも、異物によって内蔵を傷められないようにと、体から分泌物を出して、長い年月をかけてその異物を幾重にも幾重にも包み込み、そうして出来上がったのが、あの真珠の珠だそうです。


現在行われている真珠の養殖は、この真珠貝の習性を利用しているのです。


この説明を読んだ時、「私たちの人生もこれとよく似ているなぁ」と思いました。


私たちもこの真珠貝同様、毎日のように心の中に傷みが入ってきます。

たいていの痛みは吐き出すことが出来ますが、時にぐさりと胸に突き刺ささって、吐き出そうにも吐き出せない痛みに出遭うこともあります。


そんな時私たちはどうしたらいいのでしょうか。

その時は仕方ないのです。痛みに耐えながらじっと胸の中に包み込む以外、方法はありません。


けれども、その痛みに耐えながらも、真珠貝と同じように、その苦しみを尊い宝石の玉に仕上げる道がこの人生に唯一つ開かれています。……



実に素晴らしい話である。「私たちもこの真珠貝同様、毎日のように心の中に傷みが入ってきます。」「時にぐさりと胸に突き刺ささって、吐き出そうにも吐き出せない痛みに出遭うこともあります。」、「その痛みに耐えながらも、真珠貝と同じように、その苦しみを尊い宝石の玉に仕上げる道」等々。



この痛みとしての異物が、すこし前掲げた中井久夫の外傷性記憶にほかならない。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


さらにこの異物がラカンの享楽である。


不快の審級にあるものは、非自我、自我の否定として刻印されている。非自我は異者としての身体、異物として現れる[c'est ainsi que ce qui est de l'ordre de l'Unlust, s'y inscrit comme non-moi, comme négation du moi, …le non-moi se distingue comme corps étranger, fremde Objekt ] (Lacan, S11, 17 Juin  1964)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance.] (Lacan, S17, 11 Février 1970)


不快な享楽ーーつまり欲動:《欲動過程による不快[die Unlust, die durch den Triebvorgang]》(フロイト『制止、症状、不安』第9章)ーー、すなわちトラウマの穴。

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)



つまりフロイトの定義における異物=異者としての身体が享楽である。


現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

享楽は身体の出来事である。享楽はトラウマの審級にある。衝撃、不慮の出来事、純粋な偶然の審級に。享楽は固着の対象である[la jouissance est un événement de corps(…) la jouissance, elle est de l'ordre du traumatisme, du choc, de la contingence, du pur hasard,(…) elle est l'objet d'une fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)


フロイトはこのトラウマとしての異物=異者としての身体を「エスの欲動蠢動」ともした。


エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる[Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen] (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)




とはいえ、砂粒がエスの欲動(現実界の享楽)であるとしたら、真珠とは何か。フロイトラカン派の精神分析においては、真珠貝の法話のようにはーー「その痛みに耐えながらも、真珠貝と同じように、その苦しみを尊い宝石の玉に仕上げる道」ーーよい話はあまりされていない。真珠とは単なる防衛である。


現実界は明らかに、それ自体トラウマ的であり、基本情動として原不安を生む。想像界と象徴界内での心的操作はこのトラウマ的現実界に対する防衛を構築することを目指す。

The Real is apparently traumatic in itself and yields a primal anxiety as a basic affect. The psychical working-over of it within the Imaginary and the Symbolic aims at building up a defence against this traumatic Real. (ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Does the woman exist? 1997)

我々の言説はすべて現実界に対する防衛である[tous nos discours sont une défense contre le réel] (Anna Aromí, Xavier Esqué, XI Congreso, Barcelona 2-6 abril 2018)



唯一、「苦しみを尊い宝石の玉に仕上げる道」に相当する防衛は美である。


美は現実界に対する最後の防衛である[la beauté est la défense dernière contre le réel.](J.-A. Miller, L'inconscient et le corps parlant, 2014)