柄谷行人はーー、
同年代といえる文学者の中で、自分に一番近いのは古井さんだったような気がします。彼はエッセイ=実験を静かに続けてきた。ものすごくラディカルな人でしたね。同時代に古井さんがいたことをありがたく思う。(古井由吉さんをしのぶ 哲学者・柄谷行人さん寄稿 エッセイ=実験、静かに貫いた 2020.03.08) |
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あるいは、
古井由吉自撰作品[全8巻]河出書房新社 2012年 |
墓参りならいずれ旅である。私自身は死んだら散骨にするように家の者に言い置いてある。墓などを遺すのは、生きているうちから、うっとうしい。(古井由吉「ゆらぐ玉の緒」『ゆらぐ玉の緒』2017年) |
親の墓は富士の山麓にある。無数の人の墓が並んでいる。親たちにとっても生前、無縁の土地だった。末男の私の入るところではない。自身、墓というものを持たぬことに定めている。 どこに葬られようと、いずれ無縁の地である。(古井由吉「たなごころ」『この道』2019年) |
親と一緒なんて御免被るというとこなんだろうよ、 |
大震災の後、絆という言葉がしきりに口にされた。それにつけても私が首をかしげさせられたのは、その言葉を口にする人に、絆の苦さを思う心があまり感じられないということだった。絆とは古来、生涯にわたって苦しいものだった。とりわけ親子の絆は。亡き親の姿は苦の中からこそ浮かび出る。 酒に酔って庭の隅の木に登り、そら撃墜だ、また一機堕ちた、と叫んでいる父親を思い出す。それを母親と、女学生の姉と、小学生の私とが、庭の瓦礫の中に坐りこんで、眉をひそめて眺めていた。(古井由吉「PHP」2016 年 4 月号) |
女は子供を連れて危機に陥った場合、子供を道連れにしようという、そういうすごいところがあるんです。(古井由吉「すばる」2015年9月号) |
奥さんは古井睿子というらしいが、古井由吉はときたま「家の者」というぐらいでほとんど語っていないんじゃないかね。大学の一年後輩の岡崎睿子さんらしいが。 |
睿子さんも古井君同様東大大学院独文科の出身で、その在学中からわたしは知り合っている。修士論文についての相談か何かで研究室にも何度か見えた。(中略) 物静かで寡黙なひと、これが第一印象だった。こちらの問いかけに対しても必要な最小限度だけを手短かに答えるだけで、あとは黙っているので、わたしは多少まごついて話のつぎ穂を見つけようとする。おりおり向ける眼が澄み徹っていて、たいがいのことは見抜かれてしまいそうである。(手塚富雄「古井君の日常性」『古井由吉 作品』四、月報 1982年12月) |
睿子は杳子かもね、《おりおり向ける眼が澄み徹っていて、たいがいのことは見抜かれてしまいそう》なんて。