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2023年11月29日水曜日

より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ

 

前回抜き出したゴダールの『新ドイツ零年』の音楽シーン自体、ひねりがあるからな、あれは単純な音楽批判ではない。ある時期以降のゴダールの態度は、《より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ》だよ。


蓮實重彦の「あなたに映画を愛しているとは言わせない」の『ゴダール・ソシアリスム』から抜き出してみよう、この文の核心は、《ヨーロッパ的に思考すれば世界の誰もが普遍を体現しうるはずだと信じている人々の無意識の傲慢さ》、《ゴダールは、傲慢な人々が見落としがちな真のヨーロッパと、文学、絵画、音楽などを通して向かいあい、より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ》だろう。


さる12月3日に80歳の誕生日を迎えたジャン=リュック・ゴダールの六年ぶりの新作『ゴダール・ソシアリスム』(2010)〔・・・〕

題名のソシアリスム、すなわち社会主義は、民主主義が古代ギリシャで生まれたように、まぎれもなく近代ヨーロッパで生まれた。帝国主義、資本主義、共産主義、等々、主義と呼ばれるものの大半もそうなのだから、ヨーロッパ的に思考すれば世界の誰もが普遍を体現しうるはずだと信じている人々の無意識の傲慢さが主題なのである。

勿論、ゴダールはその傲慢さを批判する。地中海の豪華客船を舞台に過去の戦争犯罪を糾弾し、フランス寒村のガレージでは民主主義の真の意味を問いなおす。零や幾何学が西欧的な起源など持ってはいないと想起させ、パレスチナ紛争こそヨーロッパ的な傲慢さの犠牲ではないかとも指摘する。だが、グローバリズムにも向けられたその批判は必ずしも反西欧的なものではない。ゴダールは、傲慢な人々が見落としがちな真のヨーロッパと、文学、絵画、音楽などを通して向かいあい、より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ。ゴダールがときに難解といわれるのは、その姿勢の屈折による。映画を発明したのはリュミエール兄弟でもエディソンでもなく、エドワール・マネだという名高い『映画史』(1988-98)の断言こそ、高度の傲慢さにほかなならい。

プロテスタント系の家庭にパリで生まれ、スイスとの二重国籍を持ち、過去30年ほどレマン湖の畔に暮らしているゴダールはその二重性を誇りにしているが、その誇りはたちどころに傲慢さと見なされ、彼を孤立させる。その孤立を「私は映画のユダヤ人だ」というきわどい比喩で語ったりするので、ユダヤ系の映画作家からは抗議文が寄せられるし、合衆国の高級紙も彼を反ユダヤ主義者ときめつける。だが、臆する風も見せない彼は、この作品でも、ハリウッドを作ったのはヨーロッパからの亡命ユダヤ人ではないかと挑発をやめない。傲慢さを批判できるのは自分だけだといっているかのようなゴダールは、傲慢な映画作家なのだろうか。それとも、語の純粋な意味での自由闊達な個人なのだろうか。

初出:朝日新聞 2010年12月17日(夕刊)




私自身、まったく及ばずながら《より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ》ことをいくらか目指しているところがあるよ、たとえそれが、21世紀という知的退行の世紀において、自らを孤立させようとも。ときに「あなたに音楽を愛しているとは言わせない」とか「あなたに女を愛していると言わせない」とか口走って。ま、最近いくらかめげてきたところがなきにしもあらずだが。



いま、人びとは驚くほど馬鹿になっています。彼らにわからないことを説明するにはものすごく時間がかかる。だから、生活のリズムもきわめてゆっくりしたものになっていきます。しかし、いまの私には、他人の悪口をいうことは許されません。ますます孤立して映画が撮れなくなってしまうからです。馬鹿馬鹿しいことを笑うにしても、最低二人の人間は必要でしょう(笑)。(ゴダール「憎しみの時代は終り、愛の時代が始まったと確信したい」(1987年8月15日、於スイス・ロール村――蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)