このブログを検索

2023年11月2日木曜日

ホロコーストの生存者の子供

 

奇妙な調査結果がある。ホロコーストの生存者の子供は、ホロコーストの被害を直接被った生き残りの親たちよりもいっそう心的外傷後ストレス障害を起こすと。


予想されるように、ホロコースト生存者の子どもは、他の両親の子どもよりも、PTSD になる傾向が高い。しかしながら、奇妙なことに、これらの子どもたちのほうが親たちよりも心的外傷後ストレス障害をよりいっそう経験することが示されている。 (Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998).


As can be expected, the offspring of survivors of the Holocaust show an increased propensity for developing PTSD when compared with the children of other parents. The curious thing, however, is that these children are also shown to experience more posttraumatic stress symptoms than their parents (Yehuda, Schmeidler, Giller, Siever, & Binder-Brynes, 1998).


これらの親たち--犠牲者自身--が機能している可能性があるのだろうか、その子どもたちにトラウマ経験を飼い馴らす必要なツールを提供し得ないようなものとして? この問いには容易には答え難い。

Is it possible that these parents―victims themselves―function in such a way as to be unable to provide their children with the necessary psychological tools to process traumatic experiences? The question has no easy answers,〔・・・〕

とはいえ、これらの結果から、親のセンシティビティーの欠如が、後のトラウマをPTSDへと変化させる素地を作っていると結論づけることができる。私たちは、このセンシティビティーの欠如が、その子どもに現勢神経症的な構造があることを示していると解釈している。

Nevertheless, on the basis of these results, we can conclude that the absence of parental sensitivity lays the ground for transforming a later trauma into PTSD. We interpret this lack of parental sensitivity as an indication for an actual-neurotic structure in their offspring.

(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005,PDF



「現勢神経症的な構造」とあるが、これについては、すこし前記したパニック障害と不安神経症(外傷神経症)」を参照。


「親のセンシティビティーの欠如」のほうは、より具体的に言えば、アタッチメントーー何よりもまず母と子供の間のミラーリング(鏡像化)ーーがうまくいっていないのではないかとされている。



実証的な研究によって繰り返し確認されているのは、PTSDや境界性パーソナリティ障害は、原初の未解決のアタッチメントスタイルに基づいていることである。問いは「未解決」が具体的に何を意味するかである。研究はまた、この臨床グループが分離不安の増大を経験することも示している(Fonagy et al.)。どちらの理論も出発点は同じである:内的な緊張の高まりが他者への訴えにつながり、他者がミラーリングを介して最初のアイデンティティの基礎を築くのである。他者からの表象は、結果として「心の理論」となり、主体に自分自身の欲動へのアクセスと、それを制御する手段の両方を提供する。このようなミラーリングが起こらなかったり、不十分な方法で起こったりした場合に何が起こるかを調べることは、私たちの観点からは特に重要である。私たちにとって、これは現実神経症的な構造の基礎を形成するものであり、その典型的な特徴は、継続的で統制されていないーーリアルなーー性質、あるいは興奮の水準である。

Empirical research has repeatedly confirmed that PTSD and borderline personality disorder are based on an original unresolved attachment style. The question is what “unresolved” means exactly. Research has also indicated that this clinical group experiences increased separation anxiety (Fonagy et al., 2002; Sabo, 1997). Both theories have an identical point of departure: An internal rise in tension leads to an appeal to the Other, and it is the Other that lays the foundations for a first identity, via his or her mirroring reaction. Representations from the Other result in a “theory of the mind” that provides the subject with both access to and a means of regulating its own drive. It is particularly relevant from our perspective to examine what happens when such a mirroring fails to occur or takes place in an inadequate way. For us, this forms the basis of the actual-neurotic structure, whose typical characteristic is the continuing, unregulated―real―nature or level of the arousal.

(ACTUAL NEUROSIS AND PTSD The Impact of the Other Paul Verhaeghe, and Stijn Vanheule、2005,PDF



なお、10月7日のハマスによるイスラエル空爆直後に発足したイスラエル戦時内閣3人ベンヤミン・ネタニヤフ(Benjamin Netanyahu)、ヨアブ・ガラント(Yoav Gallant)、ベニー・ガンツ(Bēnī Gantz)のうち、後者二人は、母がホロコートの生存者であり、ネタニエフの兄は、パレスチナ解放人民戦線絡みのエンテベ空港奇襲作戦で死亡している。






………………


以下は、「ホロコートの生存者の子供」の話から外れてーーそのうち話題にするかもしれないがーー、主に用語に拘って記述する。


「アタッチメント」は邦訳では「愛着」とも訳されてきた語であるが、次のような指摘がある。



独語の「Anlehnung」は語義的には英語の「attachment」に近似しているが、残念なことに英語で新語的な「anaclitic」に翻訳されたことで歪められてしまった。

The German word “Anlehnung” is semantically close to the English “attachment,” which was unfortunately distorted by the English translation into the neologistic “anaclitic” (VANHEULE & VERHAEGHE: IDENTITY THROUGH A PSYCHOANALYTIC LOOKING GLASS, 2012)


ーーネット上でざっと見た範囲でだが、フロイトの"Anlehnung"は、人文書院旧訳では「依存」、岩波新訳では「依託」と訳されているようだ。


精神分析の世界でのアタッチメント概念は、メラニー・クラインと一緒に仕事をしたジョン・ボウルビィJohn Bowlby に始まる。彼の主要理論は、第Ⅰ巻“Attachment”(邦題『愛着行動』1969年)、第Ⅱ巻“Separation”(邦題『分離不安』1973年) 、第Ⅲ巻“Loss”(邦題『愛情喪失』 1980年)にある。


ボウルビィの代表的後継者フォナギーFonagyは次のように言っている(三番目はボウルビィ)。


私たちの自我の核心は、私たちがどのように見られているかの表象である。In contemporary attachment theory, mirroring is the central process: “at the core of our selves is the representation of how we were seen” (Fonagy et al. 2002, p. 348).

この[内面モデル]の重要な特徴は、アタッチメント形像の目から見て、子どもがどれほど受け入れられるか受け入れられないかである。Moreover, the basis of the inner working model for the image of self and other has everything to do with the child's reaction to the desire of the mother: “The key feature of this [inner model] is how acceptable or unacceptable the child feels in the eye of the attachment figure” (Fonagy 2001, p. 12).

親密さのリスクとは何かを明確にする必要がある。もうひとつのリスクは、パートナーのどちらかが、相手の強烈な愛着行動の虜になってしまうことへの恐れである。

‘You need to clarify what the risks of intimacy are. One risk, which may motivate either child or mother, is fear of rejection; another risk, which may also motivate either partner, is fear of being held captive by the intense attachment behaviour of the other.’ Bowlby, J. (1985) Letter to John Byng-Hall, 12 April 1985. PP/Bow/J.9/45:


なおボウルビィの先行者ウィニコットは晩年の『遊ぶことと現実』「母親の鏡としての役割」(Mirror-role of Mother and Family in Child Development. in Playing and Reality, 1971.)で、ミラーニングに関して、


「乳児は母親の顔に何を見出すのか?それは乳児自身なのである。母親が乳児を見つめている時、母親がどの様に見えるかは、彼女がそこに何を見ているかに関係するのだ。」

「私の症例では、母親は自分の気分を、さらには自分の硬直した防衛をその顔に反映させる。〔・・・〕その様な場合赤ん坊は母親の顔に自分自身を見ることが出来ないのだ。」と言っている。


この後者の症状が、おそらく先のポール・バーハウPaul Verhaeghe曰くの《ミラーリングが起こらなかったり、不十分な方法で起こったりした場合》の現勢神経症的構造(事実上の外傷神経症[参照])に関わる。


現在の精神医学界では、安易に遺伝やら脳やらに原因を帰す悪弊があるがーー特に脳に関しては、スピノザやニーチェが指摘した「原因と結果の遠近法的倒錯」に陥っているのではないかと疑いたくなる時がままあるーー、現代フロイト・ラカンにおいては、その悪弊に陥る誘惑を拒絶する傾向があるように思える。



さて、ボウルビィのアタッチメントの定義は、遠藤利彦氏により次のように要約されており、これが日本におけるこの概念のベースになっているようだ(これもざっとみた限りでだが、いくつかの代表的と思われる論文でこの定義が引用されている)。


「アタッチメント」が、人と人、特に親とその幼い子どもとの間の緊密な情愛的絆、ときには、その愛情関係全般の性質を指し示すことも少なくなく、それは必ずしも過誤ではないが、Bowlby(1969/1982)が最初に示した原義は文字通り、生物個体が他の個体にくっつこうとする(アタッチしようとする)ことに他ならず、個体が危機的状況に接し、あるいはまた、そうした危機を予知し、恐れや不安の情動が強く喚起されたときに、特定の他個体への近接を通して、主観的な安全の感覚を回復・維持しようとする傾性をアタッチメントと呼んだ。発達早期に、子どもは自らの安全の感覚を、現に外在する養育者への物理的近接を通して専ら得ようとする。そして、子どもはこうした経験の蓄積を通して、徐々に、一般化された養育者の心像を、そして相補的に自己の心像を内在化する。その後それらを社会生活の中で様々な人間関係をもつ上での、一種の表象上のモデルとして用いるようになる。 (遠藤利彦『アタッチメントと理論領域』2007年)




ちなみにフロイトはアタッチメントAnlehnungという語を、例えば次のように使っている。


アタッチメント型に則った母への対象備給[Objektbesetzung der Mutter nach dem Anlehnungstypus vorzunehmen.](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」1921年)

子供の最初のエロス対象は、この乳幼児を滋養する母の乳房である。愛は、満足されるべき滋養の必要性へのアタッチメントに起源がある[Das erste erotische Objekt des Kindes ist die ernährende Mutter-brust, die Liebe entsteht in Anlehnung an das befriedigte Nahrungs-bedürfnis.]。〔・・・〕


疑いもなく最初は、子供は乳房と自己身体とのあいだの区別をしていない[Die Brust wird anfangs gewiss nicht von dem eigenen Körper unterschieden]。


乳房が身体から分離され「外部」に移行されなければならないときーー子供はたいへんしばしば乳房の不在を見出す--、幼児は、対象としての乳房を、原ナルシシズム的リビドー備給の部分と見なす。[wenn sie vom Körper abgetrennt, nach „aussen" verlegt werden muss, weil sie so häufig vom Kind vermisst wird, nimmt sie als „Objekt" einen Teil der ursprünglich narzisstischen Libidobesetzung mit sich.](フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第7章、1939年)


最初の方は「同一化」にかかわる文脈で使用されており、二番目の方は「分離不安」に関わるとしてよいだろう。そもそも対象備給は同一化の言い換えである、《個人の原始的な口唇期の初めにおいて、対象備給と同一化は互いに区別されていなかった[Uranfänglich in der primitiven oralen Phase des Individuums sind Objektbesetzung und Identifizierung wohl nicht voneinander zu unterscheiden. ]》(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


なおフロイトは、母との前エディプス的同一化を母への固着と等置している[参照]。


とすれば、アタッチメント=愛着[Anlehnung]と愛の固着(リビドーの固着)の語義的親和性も想定できる。

幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen].(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年)



なお現代主流ラカン派では、固着分析が基盤である、《分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


晩年のフロイトにおける固着の代表的定義は《トラウマへの固着と反復強迫[Fixierung an das Trauma und Wiederholungszwang]》(『モーセと一神教』1939年)だが、トラウマとは喪失をも意味する。ーー《喪失というトラウマ的状況 [Die traumatische Situation des Vermissens ] 》(フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)。


フロイトには別に《母なる対象の喪失[Verlust des Mutterobjekts]》 (『制止、症状、不安』第8章、1926年)、《愛の喪失への不安[Angst vor dem Liebesverlust]》(『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 1933年)等々の表現があるが、《不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]》(『制止、症状、不安』第11B1926年)であり、愛の喪失への不安とは、「愛の喪失のトラウマ」である。


つまりトラウマへの固着は「喪われた対象への固着」(喪われた愛の対象への固着)とも言い換えうる(ここでは「喪われた対象へのアタッチメント(愛着)」と言いうるか否かは保留しておこう)。そして反復強迫とは究極的には喪われた母の身体を取り戻そうとする「エスの欲動蠢動=無意識のエスの反復強迫」である。反復強迫? 別名「死の欲動」、ーー《われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.]》(フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


フロイトの死の欲動の別の定義は自己破壊欲動であることは少し前に示した。