まず、長いあいだ忘れられていたフロイトの現実神経症概念を、阪神大震災被災を契機に取り出して、外傷神経症と結びつけた中井久夫を引用することから始める。
戦争神経症は外傷神経症でもあり、また、現実神経症という、フロイトの概念でありながらフロイト自身ほとんど発展させなかった、彼によれば第三類の、神経症性障害でもあった。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
医療人類学者のヤングによれば、DSM体系では、神経症というものを廃棄して、第4版に至ってはついに一語もなくなった。ところがヤングは、フロイトが言っている神経症の中で精神神経症というものだけをDSMは相手にしているので、現実神経症と外傷性神経症については無視していると批判しています(『PTSDの医療人類学』)。(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
上で中井久夫が「現実神経症」としているのは、最近は現勢神経症[Aktualneurose]と訳されることが多い。 フロイトにおいて神経症は大きく二種類ある。 |
現勢神経症の症状は、しばしば、精神神経症の症状の核であり、先駆けである。das Symptom der Aktualneurose ist nämlich häufig der Kern und die Vorstufe des psychoneurotischen Symptoms.(フロイト『精神分析入門』第24章、1917年) |
神経症はトラウマの病いと等価とみなしうる。その情動的特徴が甚だしく強烈なトラウマ的出来事を取り扱えないことにより、神経症は生じる。Die Neurose wäre einer traumatischen Erkrankung gleichzusetzen und entstünde durch die Unfähigkeit, ein überstark affektbetontes Erlebnis zu erledigen. (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着 Die Fixierung an das Trauma」1917年) |
フロイトが神経症はトラウマの病い(=トラウマへの固着の病い)とする時、この神経症は事実上、現勢神経症であり、これがフロイトにとってあらゆる症状の核である。精神神経症はその心的外被[psychische Umkleidung]である[参照]。 |
以下は上の前提で読まれたし。 |
現勢神経症のカテゴリーにおいて、フロイトが最も強調するのは、不安神経症である。The category of actual neurosis Freud stresses most is anxiety neurosis(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, ACTUAL NEUROSIS AS THE UNDERLYING PSYCHIC STRUCTURE OF PANIC DISORDER, SOMATIZATION, AND SOMATOFORM DISORDER, 2007年) |
フロイトの現勢神経症の記述とDSM-IVのPTSDの記述を比較すると、即座に多くの類似点が現れる。第一に、現勢神経症もPTSDも、臨床現象の中心は不安である。DSM-IVでPTSDが不安障害に分類されているのはそのためである。この不安の性質はきわめて典型的である。PTSDのDSM-IV基準に記載されている不安、無力感(寄る辺なさ)、恐怖は、フロイトにおける不安神経症やパニック発作の不安に酷似している。実際のところ、DSM-IVのパニック障害の記述は、フロイトの不安神経症の記述とほとんど同じである。 |
When one compares Freud's description of the actual neurosis with the description of PTSD in the DSM–IV, a number of similarities immediately appear. First, for both actual neurosis and PTSD, the central clinical phenomenon is anxiety. That is why PTSD is classified under the heading of the anxiety disorders in the DSM–IV. The nature of this anxiety is quite typical: There is no psychical processing of this anxiety. The fear, helplessness, or horror described in the DSM–IV criteria of PTSD closely resembles the anxiety of the anxiety neurosis and the panic attacks in Freud. As a matter of fact, the DSM–IV description of panic disorder is almost exactly the same as Freud's description of anxiety neurosis. |
(ポール・バーハウ他 Paul Verhaeghe and Stijn Vanheule, ACTUAL NEUROSIS AND PTSD, 2005年) |
ポール・バーハウは、PTSDとの関連付けているが、冒頭の中井久夫の記述に示唆されているように、現勢神経症は事実上、外傷神経症であり、この現勢神経症の代表的な症状が不安神経症かつまたDSM–IVのパニック障害ということになる。ちなみに後年のフロイトにおける不安の定義はトラウマである、ーー《不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma]》(フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)
日本でもフロイト・ラカン研究者の片岡一竹氏が不安神経症とパニック障害を等置している。 |
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不安神経症という臨床単位はフロイト以後精神医学にも取り入れられ広範に用いられたが、DSM-IV 以降 は全般性不安障害やパニック障害などの病名に取って代わられた。(片岡一竹「初期フロイトの性理論」2020年) |
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もう少しネット検索してみたら、フロイト派でなくても、同様なようだ。 ◼️「不安障害について」東北大学保健管理センター、山崎尚人 2006年 |
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パニック障害Panic Disorderは、不安神経症にほぼ相当する |
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◼️なぜパニック障害に悩む芸能人が多いのか 岩波明 精神科医、昭和大学附属烏山病院院長 2019/02/05 |
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日本で「パニック障害」という症状が知られるようになったのは、90年代以降だという。 「フロイトの時代から症状の記述が残っている病気で、1980年代までは不安神経症と呼ばれていました。80年代にアメリカ精神医学会による、患者の精神状態に関する診断基準(DSM)で『パニック障害』という名前が付いた。日本でも90年代には社会的に浸透していました」 |
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岩波明氏は別に次のようにも記しているようだ。 |
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◼️精神科医が狂気をつくる―臨床現場からの緊急警告 岩波明 新潮社 2011年 |
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精神医学の歴史の中で、精神療法という治療法が試みられたことは、一つのトライアルとして評価すべきであろう。精神療法は主として、不安神経症(パニック障害)、ヒステリー(解離性障害など)などの神経症圏の疾患に対して用いられてきた。これは精神分析の開祖であるフロイト以来の伝統であり、「対話」によって精神疾患が治癒するかどうかという膨大な実験であった。 しかし現在に至るまで、その医学的な有効性は証明されていない。たとえば、パニック障害などの不安障害に対しては長時間の面接よりも、抗不安薬や抗うつ薬の服薬がはるかに有効性が高いことを医師も患者も知っている。精神療法や精神分析を専門とする医師においても、薬物療法を併用することが一般的となっている。 |
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この岩波氏の記述は、フロイトの不安神経症の定義とは異なり、いささかmisleading である。もともとフロイトは不安神経症は精神療法では対応不可能としているのだから。 |
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不安神経症は、興奮の源泉、障害の原因が身体的領域にあり、ヒステリーや強迫神経症が心的領域にあるのとは異る。 die Angstneurose …daß die Erregungsquelle, der Anlaß zur Störung, auf somatischem Gebiete liegt, anstatt wie bei Hysterie und Zwangsneurose auf psychischem. 〔・・・〕 不安神経症は、抑圧された表象に由来しておらず、心理学的分析においてはそれ以上には削減不能であり、精神療法では対抗不能である。Angstneurose …stammt er nicht von einer verdrängten Vorstellung her, sondern erweist sich bei psychologischer Analyse als nicht weiter reduzierbar, wie er auch durch Psychotherapie nicht anfechtbar ist. (フロイト『ある特定の症状複合を「不安神経症」として神経衰弱から分離することの妥当性について』1894年、摘要) |
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精神療法が対応可能なのは、抑圧された表象に由来する精神神経症(ヒステリーや強迫神経症等)のみであり、不安神経症(パニック障害)に代表される現勢神経症には不可能である。 精神神経症に関わる抑圧された表象とは抑圧された願望(欲望)でもある。他方、現勢神経症は抑圧された欲動に関わる。ここでの「抑圧」という語を厳密に言えば、前者が後期抑圧、後者が原抑圧である[参照]。 左項が精神神経症、右項が事実上、現勢神経症に関わるとすることができる。というのは、《おそらく最初期の抑圧(原抑圧)が、現勢神経症の病理を為す[die wahrscheinlich frühesten Verdrängungen, …in der Ätiologie der Aktualneurosen verwirklicht ist]〔・・・〕精神神経症は、現勢神経症を基盤としてとくに容易に発達する[daß sich auf dem Boden dieser Aktualneurosen besonders leicht Psychoneurosen entwickeln]》(フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年)とあるから。 そして先の不安神経症=パニック障害を受け入れるなら、パニック障害とは現勢神経症のひとつとなる。そしてこの現勢神経症がラカンの享楽であり、パニック障害とは欲望の症状ではなく、享楽の症状ということになる[参照]。
「享楽」といういささか誤読され続けているように見える語は、実はトラウマの症状なのであり、原抑圧されたトラウマの回帰が享楽の回帰の内実である、ーー《反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]》(Lacan, S17, 14 Janvier 1970)。 話を戻して、パニック障害が不安神経症であり、現勢神経症=外傷神経症の範疇なら、フロイトや中井久夫の次の記述に当てはまる症状ということになる。
現在のパニック障害が実際にこの記述内におさまるか否かは種々の見解があろうから、ここでは「こうでもありうるかも」とだけしておこう。
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