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2023年10月25日水曜日

神経症と精神病の相違?ーーワカンネエヨ


現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)



ジャック=アラン・ミレールも中井久夫とほぼ同じことを言っている。


今、私は思い起こしてみる。あの時(1998年)、私はなぜ、今話しているような「ふつうの精神病 la psychose ordinaire」概念の発明の必要性・緊急性・有益性を感じたか、と。私は言おう、我々の臨床における硬直した二項特性ーー神経症あるいは精神病ーーから逃れようとした、と。

Je peux maintenant réfléchir aux raisons pour lesquelles à ce moment-là j'ai ressenti la nécessité, l'urgence et l'utilité d'inventer cette façon de parler - la psychose ordinaire.  Je dirais que c'était pour esquiver le caractère binaire rigide de notre clinique - la névrose ou la psychose.〔・・・〕


我々の臨床は本質的に二項特性がある。この結果、我々は長いあいだ観察してきた。臨床家・分析家・心理療法士たちが、患者は神経症なのか精神病なのかと首を傾げてきたことを。あなたが、これらの分析家を見るとき、毎年同じように、患者 X についての話に戻ってゆく。そしてあなたは訊ねる、「それで、あなたは彼が神経症なのか精神病なのか決めたの?」。答えは「まだ決まらないんだ」。このように、なん年もなん年も続く。はっきりしているのは、これは満足のいくやり方ではなかったことだ。

notre clinique avait un caractère essentiellement binaire. Résultat : durant des années, on voyait des cliniciens, des analystes, des psychothérapeutes se demander si leur patient était névrosé ou psychotique. Lorsque vous receviez ces analystes en contrôle, vous pouviez les voir revenir, année après année, parler de leur patient x et si vous leur aviez demandé : « Avez-vous vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? », ils auraient dit : « Non, je n'ai pas décidé pour le moment. » Et ça continuait ainsi pendant des années. Ce n'était clairement pas une façon satisfaisante de considérer les choses. J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009


上に、ふつうの精神病[la psychose ordinaire]とあるが、ラカンの「人はみな妄想する」の言い換え。


参照:精神病は果てしない大陸



神経症臨床家とみなされてきたフロイトも晩年次のように言っている。


正常人といってもいずれもみな一定の範囲以内で正常であるにすぎず、彼の自我は、どこかある一部分においては、多少の程度の差はあっても精神病者の自我に接近している。

Jeder Normale ist eben nur durchschnittlich normal, sein Ich nähert sich dem des Psychotikers in dem oder jenem Stück(フロイト『終りある分析と終わりなき分析』第5章、1937年)



神経症は幻想の症状、精神病は妄想の症状と一般的には言われてきた。


だがーー、

我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire;  2009)


つまり神経症的とは精神病的のことだ、とミレールはここで言っているのである。

フロイトも主に宗教に関してだが、ときに集団妄想[Massenwahn]、ときに神経症と言っている[参照]。



重要なのは人がみなもっている、欲動に関わる構造的トラウマであり、そのトラウマの穴の穴埋め(防衛)が精神病と呼ばれたり、神経症と呼ばれたりしてきた。


我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界はトラウマの穴をなしている[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé … ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou.  ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 )


あるいはーー、


人はみなトラウマに出会う。その理由は、われわれ自身の欲動の特性のためである。このトラウマは「構造的トラウマ Structural Trauma」として考えられなければならない。その意味は、不可避のトラウマだということである。このトラウマのすべては、主体性の構造にかかわる。そして構造的トラウマの上に、われわれの何割かは別のトラウマに出会う。外部から来る「偶然的-事故的トラウマ Accidental Trauma」である。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender, From subject to drive, 2001)


ラカンが主体は穴、欲動の現実界は穴の機能と言ったとき、主体はトラウマ、欲動はトラウマということ。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)



神経症や精神病だけでなく倒錯も穴埋め。


倒錯者は、大他者の中の穴を穴埋めることに自ら奉仕する[le pervers est celui qui se consacre à boucher ce trou dans l'Autre](Lacan, S16, 26 Mars 1969)


そもそも事実上の言語としての父の名自体、トラウマの穴埋め。


父の名という穴埋め[bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)

大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)



フロイトにおいてもすべての症状はトラウマの不安を避けるもの。


すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)


これは、一般に精神病に関わるとされてきた妄想形成においても同じ。


病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年)




もっとも古典的区分の神経症・精神病はやはり違いがあるという精神科医もいる。とはいえ、基本的には「マスクされた精神病 masked psychosis」「マスクする神経症 masking neurosis」の構造をもっている。


深さの問題としてとらえれば「マスクされた精神病」masked psychosis のある一方、神経症が精神病(あるいは身体病)をマスクすることも多い(“masking neurosis”)。ヤップは、文化的変異を基礎的な病いの被覆(うわおおい overlay)と考えていた。


私は精神病に、非常に古い時代に有用であったものの空転と失調の行きつく涯をみた(『分裂病と人類』1982年)。分裂病と、うつ病の病前性格の一つである執着性気質の二つについてであったが、要するに、人類に骨がらみの、歴史の古い病いということだ。これは「文化依存症候群」のほうが古型であるという通念に逆らい、いずれにせよ証明はできないが、より整合的な臆説でありうると思う。むろん文化依存症候群の総体が新しいのではなく、表現型の可変性が高いという意味である。〔・・・〕


逆に、軽症な人のほうへと目を移してゆけば、文化的ステロタイプの中から次第に個人性が卓越してくるのではないか。すなわち文化依存症候群から、普遍症候群の反対側に個人症候群にむかい、次第にその色を濃くするスペクトラム帯があるということである。力動精神医学が長く神経症に自己限定し、フロイトが精神病治療に対してほとんど忌避に近い態度をとったものおそらくそのためだろう。(中井久夫『治療文化論』1990年)