ユダヤ人は生者にとっては死者、地元民にとっては異者、資産家にとっては乞食、貧者にとっては搾取者や百万長者、愛国者にとっては国を持たない者、全ての階級にとっては憎むべき競争相手である。 |
der Jude für die Lebenden ein Toter, für die Eingeborenen ein Fremder, für die Einheimischen ein Landstreicher, für die Besitzenden ein Bettler, für die Armen ein Ausbeuter und Millionär, für die Patrioten ein Vaterlandsloser, für alle Klassen ein verhaßter Konkurrent. |
ーーレオン・ピンスケル『自力解放』Leon Pinsker, AUTOEMANZIPATION, 1882年 |
たまたま行き当たったのだが、とっても巧みなユダヤ人の定義だね。 レオン・ピンスケル(Leon Pinsker)は、19世紀末のロシア帝国においてシオニズム運動を展開したユダヤ人医師である。マルクスがポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人と言った、当時ロシア領であったポーランド生まれ。 |
本来の商業民族は、エピクロスの神々のように、またはポーランド社会の気孔のなかのユダヤ人のように、ただ古代世界のあいだの空所にのみ存在する[ Eigentliche Handelsvölker existieren nur in den Intermundien der alten Welt, wie Epikurs Götter oder wie Juden in den Poren der polnischen Gesellschaft.](マルクス『資本論』第1巻第2篇第4章、1867年) |
ユダヤ人マルクスは、1844年ーー1818年生まれだからまだ26歳だーー次のように書いているが、ここにもピンスケルのユダヤ人の定義がある。 |
ユダヤ教の現世的根拠は何か。それは実利的欲求すなわち利己心である。ユダヤ人の現世的崇拝の対象は何か。それはボロ儲けである。ユダヤ人の現世的な神とは何か。それはカネである。よしそうだとすれば、ボロ儲けとカネから、すなわちこの実際的で現実的なユダヤ教から解放されることが現代の自己開放ということになろう。 |
Welches ist der weltliche Grund des Judentums? Das praktische Bedürfnis, der Eigennutz. Welches ist der weltliche Kultus des Juden? Der Schacher. Welches ist sein weltlicher Gott? Das Geld. Nun wohl! Die Emanzipation vom Schacher und vom Geld, also vom praktischen, realen Judentum wäre die Selbstemanzipation unsrer Zeit. |
(マルクス 『ユダヤ人問題によせて』1844年) |
ここでもう一人の偉大なユダヤ人フロイトを引用しておこうう。 |
ユダヤ人であったおかげで、私は、他の人たちが知力を行使する際制約されるところの数多くの偏見を免れたのでした。ユダヤ人の故に私はまた、排斥運動に遭遇する心構えもできておりましたし、固く結束した多数派に与することをきっぱりあきらめる覚悟もできたのでした。Weil ich Jude war, fand ich mich frei von vielen Vorurteilen, die andere im Gebrauch ihres Intellekts beschränkten, als Jude war ich dafür vorbereitet, in die Opposition zu gehen und auf das Einvernehmen mit der »kompakten Majorität« zu verzichten.(フロイト『ブナイ・ブリース協会会員への挨拶(Ansprache an die Mitglieder des Vereins B'nai B'rith)』1926年) |
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十歳か十二歳かの少年だったころ、父は私を散歩に連れていって、道すがら私に向って彼の人生観をぼつぼつ語りきかせた。彼はあるとき、昔はどんなに世の中が住みにくかったかということの一例を話した。「己の青年時代のことだが、いい着物をきて、新しい毛皮の帽子をかぶって土曜日に町を散歩していたのだ。するとキリスト教徒がひとり向うからやってきて、いきなり己の帽子をぬかるみの中へ叩き落した。そうしてこういうのだ、『ユダヤ人、舗道を歩くな![Jud, herunter vom Trottoir!] 』」「お父さんはそれでどうしたの?」すると父は平然と答えた、「己か。己は車道へ降りて、帽子を拾ったさ」 |
これはどうも少年の手をひいて歩いてゆくこの頑丈な父親にふさわしくなかった。私はこの不満な一状況に、ハンニバルの父、ハミルカル・バルカスが少年ハンニバルをして、家の中の祭壇の前でローマ人への復讐を誓わせた一場、私の気持にぴったりする一情景を対置せしめた。爾来ハンニバルは私の幻想の中に不動の位置を占めてきたのである。(フロイト『夢解釈』第5章、1900年) |
あるいはーー、 |
◼️1920年にシオニスト会議によって設立されたケレン・ハイェソッド移民基金(Keren Hayesod)代表のChaim Koffler 宛のフロイト書簡より |
……しかし他方で私は、パレスチナがユダヤ人の国家になることはあり得ないと思うし、キリスト教世界やイスラム教世界が、自分たちの聖地をユダヤ人の管理下に置く用意があるとは思えません。私には、歴史的な負担の少ない土地にユダヤ人の祖国を建設する方が賢明だと思えます。しかし、そのような合理的な視点が、大衆の熱狂や富裕層の経済的支援を獲得し得ないことを承知しています。また、同志たちの非現実的な狂信主義が、アラブ人の不信を招いた責任の一端を担っていることも、遺憾ながら認めています。ヘロデの城壁の一部を国の遺物とし、そのために地元の人々の感情を逆なでするような、間違った(!)解釈による崇敬の念にはまったく同情できないのです。 |
Aber andererseits glaube ich nicht, dass Palästina jemals ein jüdischer Staat werden kann und dass die christliche wie die islamitische Welt je bereit sein werden, ihre Heiligtümer jüdischer Obhut zu überlassen. Mir wäre es verständiger erschienen, ein jüdisches Vaterland auf einem historisch unbelasteten Boden zu gründen; ich weiß zwar, dass man für eine so rationelle Absicht nie die Begeisterung der Massen und die Mittat der Reichen gewonnen hätte. Auch gebe ich mit Bedauern zu, dass der wirklichkeitsfremde Fanatismus unserer Volksgenossen sein Stück Schuld trägt an der Erweckung des Misstrauens der Araber. Gar keine Sympathie kann ich für die miss(!)gedeutete Pietät aufbringen, die aus einem Stück der Mauer von Herodes eine nationale Reliquie macht und ihretwegen die Gefühle der Einheimischen herausfordert. (Freud, An Chaim Koffler, 1930年) |
◼️小説家アルノルト・ツヴァイク宛より |
パレスチナは宗教、聖なる愚行、内なる希望的観測によって外なる幻想世界に対処しようとする僭越な試みにほかなりません。 |
Palästina hat nichts gebildet als Religionen, heiligen Wahnwitz, vermessene Versuche, die äußere Scheinwelt durch innere Wunschwelt zu bewältigen, Freud, An Arnold Zweig, Hochroterd, 8. Mai 1932) |
結局、国民国家を作るとユダヤ人はユダヤ人でなくなるんじゃないかね。 |
サイードは『オリエンタリズム』で、一二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの『ディダシカリオン』の一節を掲げている。 |
故郷を甘美に思うものはまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなりの力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ、完璧な人間である。 The person who finds his homeland sweet is a tender beginner; he to whom every soil is as his native one is already strong; but he is perfect to whom the entire world is as a foreign place. (サン=ヴィクトルのフーゴー『ディダスカリコン(学習論)』第3巻第19章) |
「想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンはこう書いている。 |
結局のところ、この同胞愛の故に、過去二世紀わたり、数千、数百万の人々が、かくも限られた想像力の産物のために、殺し合い、あるいはむしろみずからすすんで死んでいったのである[Ultimately it is this fraternity that makes it possible, over the past two centuries, for so many millions of people, not so much to kill, as willingly to die for such limited imaginings. ] (ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体(Imagined Communities)』1983年) |
「過去二世紀わたり」とあるが、国民国家としての「想像の共同体」は、せいぜいフランス革命後に生まれたに過ぎず(参照:山内昌之「いま、なぜ民族なのか?」1993年)、国民国家(Nation)概念を批判することなしで、かつてはユダヤ人とアラブ人は同じ土地で平和に共存していたなどと言っても詮方なしだよ、ーー《ナショナリズムは戦争だ![Le nationalisme, c'est la guerre !]》(フランソワ・ミッテラン演説 François Mitterrand, 17 janvier 1995) |