人はみな何らかの形でーー各人固有の仕方でーー「病気」なのであり、これをかつては人はみな神経症と呼び、そして現代ラカン派は、人はみな精神病ーーふつうの精神病[la psychose ordinaire]ーーと呼ぶ。
フロイトはすべては夢だけだと考えた。すなわち人はみな(もしこの表現が許されるなら)、ーー人はみな狂っている。すなわち人はみな妄想する[Freud… Il a considéré que rien n’est que rêve, et que tout le monde (si l’on peut dire une pareille expression), tout le monde est fou, c’est-à-dire délirant] ( Lacan, « Journal d’Ornicar ? », 1978) |
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私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと[Je dois dire que dans son dernier enseignement, Lacan est proche de dire que tout l'ordre symbolique est délire]〔・・・〕 ラカンは1978年に言った、「人はみな狂っている、すなわち人はみな妄想する[tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant]」と。〔・・・〕 我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである[ fantasmatique peut-on-dire - mais, justement, fantasmatique veut dire délirant. ](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
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精神病は果てしない大陸である。彼自身と他者のために世界を作る申し分のないパラノイア、卓越した逞しいパラノイア症者と、自分の部屋から外に出られない分裂病者のあいだの相違を見なさい。われわれはこのすべてを精神病と呼ぶ。あなた方がパラノイア症者を持っているなら、父の名の見せかけはあなたのものよりもより申し分がない、あなた方よりも強い。La psychose est un vaste continent, un continent immense. Regardez la différence entre un bon paranoïaque, fin et musclé, qui se construit vraiment un monde à lui et pour d'autres, et le schizophrène qui ne peut pas sortir de sa chambre. Nous nommons tout cela psychose. Lorsqu'il s'agit d'une paranoïa, le semblant du Nom-du-Père est meilleur que le vôtre, il est plus solide.〔・・・〕 |
しかしある種の、繊細なパラノイアがある。最初ははっきりしていない。3年間の分析の後はじめて、通常から逸脱した何ものかを感知する。この主体は日々パラノイアを構成していると。そしてまたあなた方は、社会的に接続が切れている分裂病者をもっている。他方、パラノイアは完全に社会的に接続している。巨大な組織はしばしば力強いパラノイア)によって管理されている。彼らは社会的超同一化をしている。かくの如く、精神病は果てしない大陸である。Il y a aussi les schizophrènes socialement déconnectés, alors que les paranoïaques sont socialement, totalement connectés. Certaines grandes organisations sont fréquemment dirigées par de puissants psychotiques dont l'identification est super sociale. Le champ des psychoses est donc immense. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
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我々の臨床は本質的に二項性を持っていた。その結果はこうだ。長い間あなた方は、臨床家を、分析家を、心理療法士を見た、患者が神経症なのか精神病なのかを問い彷徨う彼らを。あなた方は見ることができる、あれら分析家は毎年毎年患者xについての話に戻るのだ、「決めたのかい、彼が神経症なのか精神病なのかを?」Avez-vous décidé s'il est névrosé ou psychotique ? そしてこう言う、「いや、まだ決まらない」Non, je n'ai pas décidé pour le moment。これが何年も続くのだ。明らかにこれは物事を考えるのに納得できるやり方ではない。 |
もしあなた方が何年もの間、主体の神経症を疑う理由があるなら、あなた方は賭けることができる、彼はむしろ「ふつうの精神病」un psychotique ordinaireだと。それが神経症であるとき、あなた方は知らなければならない!それがこの神経症概念への貢献だ。神経症はウォールペーパーではない。神経症は明確な構造があると。 もしあなたが患者に神経症の明確な構造を認知しないなら、あなたは賭けることができる、あるいは賭けを試みなければならない、それは繕い隠された精神病、ヴェールされた精神病だと[c'est une psychose dissimulée, une psychose voilée]。(J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009) |
人がみなふつうの精神病なのは、人はみな各人固有のトラウマをもっているせいである。
「人はみな狂っている(人はみな妄想する)」の臨床の彼岸には、「人はみなトラウマ化されている」がある。この意味はすべての人にとって穴があるということである[au-delà de la clinique, « Tout le monde est fou » tout le monde est traumatisé … ce qu'il y a pour tous ceux-là, c'est un trou. ](J.-A. Miller, Vie de Lacan, 17/03/2010 ) |
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我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel.]〔・・・〕現実界は穴=トラウマをなしている[le Réel … ça fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
ラカンの穴=トラウマによる言葉遊び[le jeu de mots de Lacan sur le troumatism]。トラウマの穴はそこにある。そしてこの穴の唯一の定義は、主体をその場に置くことである[Le trou du traumatisme est là, et ce trou est la seule définition qu'on puisse donner du sujet à cette place] (J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 10/05/2006) |
ラカンの現実界はフロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan …, c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.] (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011) |
フロイトは宗教の事例を挙げて次のように言っている。 |
人間の宗教は集団妄想[Massenwahn]の一種と見做すべきである。言うまでもなく、妄想に囚われている人間はそれが妄想であることを認めない。Als solchen Massenwahn müssen wir auch die Religionen der Menschheit kennzeichnen. Den Wahn erkennt natürlich niemals, wer ihn selbst noch teilt. 〔・・・〕 宗教は選択と適応という作業を制限する。というのは、宗教は幸福の獲得と苦痛の防衛への道をすべての人間に平等に課すから。宗教のテクニックは、生の価値をデフレさせ、現実の世界の像を妄想によって歪曲することにある。宗教の前提にあるのは、知性への恫喝である。この犠牲を払って、つまり信者を心的幼児性の状態に余儀なく固着させ、彼らを集団妄想へと引き摺り込むことによって、宗教は多くの人間が個人的神経症に陥るのを防ぐことに成功する。 Die Religion beeinträchtigt dieses Spiel der Auswahl ud Anpassung, indem sie ihren Weg zum Glückserwerb und Leidensschutz allen in gleicher Weise aufdrängt. Ihre Technik besteht darin, den Wert des Lebens herabzudrücken und das Bild der realen Welt wahnhaft zu entstellen, was die Einschüchterung der Intelligenz zur Voraussetzung hat. Um diesen Preis, durch gewaltsame Fixierung eines psychischen Infantilismus und Einbeziehung in einen Massenwahn gelingt es der Religion, vielen Menschen die individuelle Neurose zu ersparen. (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第2章, 1930年) |
だがこれは宗教に限らない。人みな個人的神経症ーー現代ラカン派文脈では個人的精神病ーーでなければ集団妄想者である。結局、文化自体が集団妄想である、➡︎「人間の文化は集団妄想である」 |
そもそも言語自体が妄想である。 |
実際は、妄想は象徴的なものだ[En tout état de cause, un délire est symbolique. ]〔・・・〕妄想はまた世界を秩序づけうる[Un délire est aussi capable d'ordonner un monde.](J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
人はみな言語で世界を秩序づけている。この秩序づけの別名は貧困化、鈍感化である。 |
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収) |
言語を学ぶことは世界をカテゴリーでくくり、因果関係という粗い網をかぶせることである。言語によって世界は簡略化され、枠付けられ、その結果、自閉症でない人間は自閉症の人からみて一万倍も鈍感になっているという。ということは、このようにして単純化され薄まった世界において優位に立てるということだ。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年) |
自閉症と分裂病概念の創出者ブロイラーにとって、自閉症とは分裂病の強度の症状だった。現代ラカン派的臨床に置いて重要なのは、神経症/精神病の区分ではなく、むしろ自閉症プラス分裂病/神経症プラス精神病の区分である。 |
分裂病においての享楽は、(パラノイアのような)外部から来る貪り喰う力ではなく、内部から主体を圧倒する破壊的力である[In schizophrenia jouissance is not a devouring force coming from without, but a destructive power that overwhelms the subjects from within]。(Stijn Vanheule, The Subject of Psychosis: A Lacanian Perspective、2011) |
自閉症は主体の故郷の地位にある。そして「主体」という語は括弧で囲まれなければならない、疑いもなく「話す存在parlêtre」という語の場に道を譲るために。 l'autisme était le statut natif du sujet, si je puis dire. Et le mot de « sujet », ici, doit porter des guillemets, et céder sans doute la place au terme de parlêtre (J.-A. MILLER, - Le-tout-dernier-Lacan – 07/03/2007) |
神経症/精神病の区分の曖昧さについては中井久夫も既に指摘している、ーー《現在一般に神経症と精神病、正常と異常の区別の曖昧化の傾向がある。実際には、どれだけ自他の生活を邪魔するかで実用的に区別されているのではないか。》(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)
もっとも中井久夫にとって、分裂病自体妄想病である、《分裂病が一次的には妄想病ではないかと私が考えていることを言っておく必要があるだろう》(「詩の基底にあるもの」初出「現代詩手帳」第37巻5号、1994年5月)
ジャック=アラン・ミレールにとっても緊張型分裂病以外は、結局妄想病である。 |
結局、精神病において、それが完全な緊張病 (緊張型分裂病 catatonia)でないなら、あなたは常に何かを持っている。その何かが主体を逃げ出したり生き続けたりすることを可能にする。On peut dire alors, eh bien, c'est une troisième structure. …En réalité, c'est la même structure. Au bout du compte, dans la psychose, si ce n'est pas une catatonie complète, vous avez toujours quelque chose qui rend possible pour le sujet de s'en sortir ou de continuer à survivre. (J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire; 2009) |
では妄想としての分裂病(統合失調症)の根にあるのは何か。結局、根にあるのは先に示したように外傷(トラウマ)であり、ラカン派でない中井久夫も同様である。 |
統合失調症と外傷との関係は今も悩ましい問題である。〔・・・〕 しかし統合失調症の幼少期には外傷的体験が報告されていることが少なくない。それはPTSDの外傷の定義に合わないかもしれないが、小さなひびも、ある時ガラスを大きく割る原因とならないとも限らない。幼児心理において何が重大かはまたまだ探求しなければならない。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年『日時計の影』所収) |
トラウマの別名は固着であり、人間のすべての症状の根にはこの「固着」がある[参照]。 |
外傷神経症は、トラウマ的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している[Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. ](フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年) |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴をつくるす。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。 le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas, (ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015) |
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身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
上のボロメオの環にあるJ (Ⱥ)とはそのまま読めば「穴の享楽」だが、別の言い方をすれば、トラウマの反復、固着の反復である。そしてこれに対する防衛が妄想である。
現代ラカン派ではこれを一般化トラウマ[le traumatisme généralisé]に対する一般化妄想[le délire généralisé ]とも言う(一般化とは、「人がみな持つ」症状を意味する)。
フロイトの言い方なら、すべての症状形成はトラウマ的不安を避けるためである。 |
すべての症状形成は、不安を避けるためのものである[alle Symptombildung nur unternommen werden, um der Angst zu entgehen](フロイト 『制止、不安、症状』第9章、1926年) |
不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない[Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
そして症状形成とは結局、妄想形成のことである。 |
病理的生産物と思われている妄想形成は、実際は、回復の試み・再構成である。[Was wir für die Krankheitsproduktion halten, die Wahnbildung, ist in Wirklichkeit der Heilungsversuch, die Rekonstruktion.] (フロイト「自伝的に記述されたパラノイア(妄想性痴呆)の一症例に関する精神分析的考察」1911年) |