ハンナ・アーレントは死後出版の書でこう言ってるらしいね、 |
わたしは何もしないで生きていくことはできる。しかし、起こったことは何であれ、少なくとも理解しようとせずに生きていくことはできない。ーーハンナ・アーレント I can very well live without doing anything. But I cannot live without trying at least to understand whatever happens.(Hannah Arendt, Melvyn A. Hill (Editor). The Recovery of the Public World, 1979) |
理解しても解決にならなければ仕方がないじゃないか、という立場もあるだろうよ。でも世界にはこういう人がいるのさ。私はエラそうなこと言うつもりはまったくないが、この一ヶ月半、集団的西側がガザの大量虐殺を事実上支持してきたのは衝撃だったね。ま、これ自体、そんなことは前からそうだったじゃないかと言う人もいるだろうから、遅蒔きながらの衝撃と言ってもよいが、なぜああなのかは理解しようとしたくなるな、とても強く。 ごく常識的な問いだな、プーチン曰くの「西側のリーダーたちよ、ガザ民間人の抹殺、あれはあなたたちにとってショックじゃないのか?」とは。 |
という話はさておき、アーレントの言葉に行き当たって、加藤周一の《昔も今も、憂うべきものは多く、憎むべきものは多い。知的好奇心の対象に限りがないことは、いうまでもない》を思い出したね。 |
『老子図』を見た後で、私は『桧垣』の老女を想い出し、老いとは何かを考えた。もちろんそれは心身の衰えである。眼がかすみ、耳が遠くなり、脚がおそくなる。物覚えが悪くなり、喜怒哀楽の情がうすく、注意の持続も短くなる。いわゆる「枯淡」は衰えの美称に過ぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。しかしこの世の中に、なすべきことはあり余るほどあり、なし得ることが少なくなっても、個人がその小部分に係るにすぎないと言う状況は、老若男女において変わりがない。昔も今も、憂うべきものは多く、憎むべきものは多い。知的好奇心の対象に限りがないことは、いうまでもない。しかるに現実に愛し、憎み、知るものが、涯のない世界の、極めて小さな部分にすぎないということは、老いの至るに及んでも、全く変わらない。人生の朝と夕暮に本質的なちがいはないように思われる。本質的なちがいがあるとすれば、それは青年の後には老年が来るのに対し、老年の後には死が来るということだけだろう。(加藤周一「老年について」 1997) |