このブログを検索

2023年11月27日月曜日

「善人」だって他人の不幸を常に憐れむわけじゃない

 



➡︎動画


人はこういった映像を見て同一化するかどうかだな、


私たちはどのようにして憐れみに心を動かされるのであろうか。私たちを自分の外に連れ出して、苦しんでいる存在に同一化することによってである。

Comment nous laissons-nous émouvoir à la pitié ? En nous transportant hors de nous-mêmes ; en nous identifiant avec l'être souffrant.( ジャン=ジャック・ルソー『言語起源論』1781年)


同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung]〔・・・〕

同一化は感情結合のもっとも初期のもっとも根源的な形式である。症状形成の条件の下、つまり抑圧と無意識のメカニズムの支配の下では、対象選択が同一化に退却する、つまり自我は対象の特性を身につけることがしばしば起こる。

[die Identifizierung die früheste und ursprünglichste Form der Gefühlsbindung ist; unter den Verhältnissen der Symptombildung, also der Verdrängung, und der Herrschaft der Mechanismen des Unbewußten kommt es oft vor, daß die Objektwahl wieder zur Identifizierung wird, also das Ich die Eigenschaften des Objektes an sich nimmt](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章、1921年)


 

「善人」だって常に同一化するわけじゃないよ、つまり他人の不幸を常に憐れむわけじゃない。病気だったら同一化しないだろうしな、


◼️自分の苦痛以外は完全な無関心に陥る病人のエゴイズム

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心[libidinöse Interesse] を自分の愛の対象[Liebesobjekten] から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。


このような事実が月並みだからといって、これをリビドー理論[ Libidotheorie] の用語に翻訳することをはばかる必要はない。したがってわれわれは言うことができる、病人は彼のリビドー備給を彼の自我の上に引き戻し、全快後にふたたび送り出すのだと[Der Kranke zieht seine Libidobesetzungen auf sein Ich zurück, um sie nach der Genesung wieder auszusenden.]

W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している[Einzig in der engen Höhle]」と述べている。リビドーと自我の関心[Libido und Ichinteresse]とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズム[Der bekannte Egoismus der Kranken]はこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心[intensiver Liebesbereitschaft]が、肉体上の障害のために追いはらわれ、突然、完全な無関心[völlige Gleichgültigkeit]にとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』第2章、1914年)



病気じゃなくても、例えば女に惚れ込んでたらたぶん同一化しないよ、ボクの場合ね。


で、究極の非同一化者は自閉症者だろうよ、「繭の中に閉じこもる」ね



外界とはもはや何の交流もない最も重度の分裂病者は、彼ら自身の世界に生きている。彼らは、叶えられたと思っている願望や迫害されているという苦悩を携えて繭の中に閉じこもるのである。彼らは可能なかぎり、外界から自らを切り離す。

この「内なる生」の相対的、絶対的優位を伴った現実からの遊離を、われわれは自閉症と呼ぶ。

Die schwersten Schizophrenien, die gar keinen Verkehr mehr pflegen, leben in einer Welt für sich; sie haben sich mit ihren Wünschen, die sie als erfüllt betrachten, oder mit den Leiden ihrer Verfolgung in sich selbst verpuppt und beschranken den Kontakt mit der Außenwelt so weit als möghch.Diese Loslösung von der Wirklichkeit zusammen mit dem relativen und absoluten Uberwiegen des Binnenlebens nennen wir Autismus.

註)自閉症 Autismus はフロイトが自体性愛 Autoerotismus と呼ぶものとほとんど同じものである。しかしながら、フロイトが理解するリビドーとエロティシズムは、他の学派よりもはるかに広い概念なので、自体性愛という語はおそらく多くの誤解を生まないままでは使われえないだろう。

Autismus ist ungefähr das gleiche, was Freud Autoerotismus nennt. Da absr für diesen Autor Libidound Erotismus viel weitere Begriffe sind als für andere Schulen, so kann das Wort hier nicht wohl b3nutzt werden, ohne zu vielen Mißverständnissen Anlaß zu geben. (オイゲン・ブロイラー『早発性痴呆または精神分裂病群』1911)




すなわち、自閉症=自体性愛=享楽であり、人は享楽に耽っていたら他人の事は我関せずである。

自体性愛的欲動は原初的である[Die autoerotischen Triebe sind aber uranfänglich](フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)

享楽とは、フロイディズムにおいて自体性愛と伝統的に呼ばれるもののことである[jouissance, qu'on appelle traditionnellement dans le freudisme l'auto-érotisme.](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)

享楽の核は自閉症的である[Le noyau de la jouissance est autiste  ](Françoise Josselin『享楽の自閉症 L'autisme de la jouissance』2011)




巷の金欠ボク珍たちだって自分の事で精一杯で、たぶん同一化しないだろうしな、


◼️大虐殺よりも自分の給料の多寡が大切なエゴイズム

一般にエゴイズムといわれるものは自己愛ではなく、遠近法の効果である。人は、自分がいるところから見える物の配置が変わることを悪と呼び、その地点から少し離れたものは見えなくなってしまう。中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり、自分の給料が変わらなかったら、 世界の秩序は一変してしまうであろう。それを自己愛とは言わない。人間は有限である。だから、正しい秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである。

Ce qu'on nomme généralement égoïsme n'est pas amour de soi, c'est un effet de perspective. Les gens nomment un mal l'altération d'un certain arrangement des choses qu'ils voient du point où ils sont ; de ce point, les choses un peu lointaines sont invisibles. Le massacre de cent mille Chinois altère à peine l'ordre du monde tel qu'ils le per-çoivent, au lieu que si un voisin de travail a eu une légère augmenta-tion de salaire et non pas eux, cet ordre est bouleversé. Ce n'est pas amour de soi, c'est que les hommes étant des êtres finis n'appliquent la notion d'ordre légitime qu'aux environs immédiats de leur coeur.

(シモーヌ・ヴェイユ 「前キリスト教的直観」Intuitions pré-chrétiennes )




ひょっとして余裕のある人だけかもね、同一化するのは。


私の人生観はわりと単純で、善人と悪人というんじゃなくて、余裕のある人間と、余裕のない人間とがあるんだろうと。それは程度の差もあるし質もあるだろうけど、私はそう考え、そういう軸で人をみている。(中井久夫「家庭の臨床」『「つながり」の精神病理』所収)



……………


チェーホフはこう書いてるな、


幸福な人間が安穏に暮らせるのも、不幸な人間がかわりに黙って重荷を担ってくれているからこそで、その沈黙がなければ、幸福もなにもあったものじゃない。(チェーホフ『すぐり』)


もっともこうもあるがね、《幸福なんぞありゃしないし、あるはずもないが、もしも人生に意義や目的があるとしたら、その意義や目的はけっして幸福にあるのではなくて、なにかもっと理性的な、偉大なことにあるのですよ。どうか、いいことをなさってくださいよ!》(同上)