この大岡昇平の文は考えさせられるな、いい意味で。 |
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折口先生の学問で、私が最初に惹かれたのは『鎮魂』という考え方である。……現代の小説家にとって、これは作品を作るのにすぐ役立つものではないが、私の感情生活は大きく変革されたといっても過言ではない。…… 鎮魂という語にからんで私の感じ方にも混乱があった。鎮魂はむしろレクイエムの訳語として普及していたからである。これは申すまでもなくカトリックの葬儀に際して歌われるミサである。キリストの再来の日まで、死者の魂が平安のうちにあることを祈るミサであり、その意味は折口説の鎮魂とはまったく違う。……『鎮魂』という漢語から、私はしずめるということと早合点した。……自分のこころを鎮めるという功利的な意味を勝手に引き出していたのである。 (大岡昇平「折口学と私」『文芸読本 折口信夫』河出書房新社、1976年) |
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折口信夫の鎮魂を、こころを鎮めるという「功利的な意味」と勘違いしていた、とある。この「功利的な意味」というのにグッときたね。 確かに鎮魂の祈りは、場合によっては何ものかから逃げる効果を持つことがある。 |
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私はバッハの合唱をひどく好み教会で歌ったこともある。そのせいでカトリック信者の友人もあった。かつて阪神大震災のボランティア活動にさる事情で--離婚直後の妻娘が西宮に住んでいたーーわずか一週間たらずだが参加したことがある。そのとき十分な時間をもっているはずの信者の友人二人を誘ってひどく不愉快な思いをした。彼らはこう言った、ぼくらは祈りを捧げることに専念しますと。 |
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いまでもあいつらの神妙な顔を思い出すことがあるんだが、そのたびにひどく頭にくるよ。ごく最近でも、ガザホロコーストに対する祈りなんて言いつつ涼しい顔をしてるヤツを見て、怒髪天を衝いちまったな ………………
折口自身、「鎮魂=魂を鎮める為のもの」と言っているわけで、安易に読むだけだったら「レクイエム」と間違えるね。 ………………
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