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2023年12月14日木曜日

鎮魂の功利性


この大岡昇平の文は考えさせられるな、いい意味で。

折口先生の学問で、私が最初に惹かれたのは『鎮魂』という考え方である。……現代の小説家にとって、これは作品を作るのにすぐ役立つものではないが、私の感情生活は大きく変革されたといっても過言ではない。……

鎮魂という語にからんで私の感じ方にも混乱があった。鎮魂はむしろレクイエムの訳語として普及していたからである。これは申すまでもなくカトリックの葬儀に際して歌われるミサである。キリストの再来の日まで、死者の魂が平安のうちにあることを祈るミサであり、その意味は折口説の鎮魂とはまったく違う。……『鎮魂』という漢語から、私はしずめるということと早合点した。……自分のこころを鎮めるという功利的な意味を勝手に引き出していたのである。 (大岡昇平「折口学と私」『文芸読本 折口信夫』河出書房新社、1976年)


折口信夫の鎮魂を、こころを鎮めるという「功利的な意味」と勘違いしていた、とある。この「功利的な意味」というのにグッときたね。


確かに鎮魂の祈りは、場合によっては何ものかから逃げる効果を持つことがある。


私はバッハの合唱をひどく好み教会で歌ったこともある。そのせいでカトリック信者の友人もあった。かつて阪神大震災のボランティア活動にさる事情で--離婚直後の妻娘が西宮に住んでいたーーわずか一週間たらずだが参加したことがある。そのとき十分な時間をもっているはずの信者の友人二人を誘ってひどく不愉快な思いをした。彼らはこう言った、ぼくらは祈りを捧げることに専念しますと。

いまでもあいつらの神妙な顔を思い出すことがあるんだが、そのたびにひどく頭にくるよ。ごく最近でも、ガザホロコーストに対する祈りなんて言いつつ涼しい顔をしてるヤツを見て、怒髪天を衝いちまったな



………………



なお折口信夫の鎮魂についての具体的内容は、折口自身からの引用の豊富な津城寛文氏の「折口信夫の鎮魂論   研究史的位相と歌人の身体感覚」(2017年、PDF)がとても参考になるね。


氏はこうまとめている。

他界である「とこよ」は「たま・たましひ」「霊魂」の常駐所であり、「まれびと」はその他界から「たま・たましひ」を現界にもたらす者である。そうした他界と現界の間を行き来自在な「霊魂」である「外来魂」を増殖させたり(たま殖ゆ)、現界の物体に憑依させたり(たま触り)、運動を制して一箇所に固定させたり(たま鎮め)、結び留めたり(たま結び)する一連の操作過程を「鎮魂」という。(津城寛文『折口信夫の鎮魂論   研究史的位相と歌人の身体感覚 』2017年)                



私が、津城氏の論を中心に、三日漬け程度で拾った鎮魂をめぐる折口自身の記述の当面の核は次の三文である。

我々の古代人は、近代に於て考へられた様に、たましひは、肉体内に常在して居るものだとは思って居なかった様である……たましひの居る場所から、或る期間だけ、仮りに人間の体内に入り来るものとして居た (折口信夫「原始信仰」)

魂を身に鎮定せしめる方法をたまふりと言ふ。鎮魂の第一義である。この魂をふるには、方術があった。舞踊〔アソビ〕を以て喚び出したものを、歌を誦することによって、身体の奥所――こころ――に入れるのであった。 (折口信夫「日本古代の国民思想」)

歌からは凡て鎮魂の意味を離すことが出来ない。つまりは魂を鎮める為のもので、歌をうたふとその人の魂が相手の体にくっつく事になるのである。(折口信夫『歌の発生及びその万葉集における展開』 )



折口自身、「鎮魂=魂を鎮める為のもの」と言っているわけで、安易に読むだけだったら「レクイエム」と間違えるね。


………………


津村氏によれば、折口の鍵言葉は、たま、鎮魂、まれびと、天皇…の順番だそうだ。


折口信夫の神道学・民俗学を通じて、「 鎮魂」ということはおそらく最重要なテーマのひとつであった。量的な問題から言っても、キー・タームの出現頻度を見れば、第一位「たま」に次ぎ、第三位以下の「まれびと」「天皇」「歌舞伎」「常世」「みこともち」などは、これに及ばないのである。(津城寛文『折口信夫の鎮魂論   研究史的位相と歌人の身体感覚 』2017年)               


カイエフロイトの鍵言葉に似てるね、穴、不気味なもの、異者、神……という具合でさ。


どの穴も女性器の裂目の象徴だった[jedes Loch war ihm Symbol der weiblichen Geschlechtsöffnung ](フロイト『無意識』第7章、1915年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの 』第2章、1919年)

不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要)

神は不気味なもので、血に飢えた悪魔であり、夜に歩き回り日光を避ける[Gottes …: Er ist ein unheimlicher, blutgieriger Dämon, der bei Nacht umgeht und das Tageslicht scheut.](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)



折口のたまのふる郷だって妣が国だからな、当然の帰結だね、相同性は。


すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)

……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)


つまり原たまは原穴だよ。