このブログを検索

2023年12月15日金曜日

私はどういうものかこのごろ「暗黒の血みどろの母胎」に夢中だ

 

私はどういうものかこのごろ南方熊楠や折口信夫に夢中だ。(三島由紀夫『裸体と衣装』1959年)

清洌な抒情といふやうなものは、人間精神のうちで、何か不快なグロテスクな怖ろしい負ひ目として現はれるのでなければ、本当の抒情でもなく、人の心も搏たないといふ考へが私の心を離れない。白面の、肺病の、夭折抒情詩人といふものには、私は頭から信用が置けないのである。先生のやうに永い、暗い、怖ろしい生存の恐怖に耐へた顔、そのために苔が生え、失礼なたとへだが化物のやうになつた顔の、抒情的な悲しみといふものを私は信じる。 〔・・・〕


古代の智者は、現代の科学者とちがつて、忌はしいものについての知識の専門家なのであつた。かれらは人間生活をよりよくしたり、より快適により便宜にしたりするために貢献するのではなかつた。死に関する知識、暗黒の血みどろの母胎に関する知識、さういふ知識は本来地上の白日の下における人間生活をおびやかすものであるから、一定の智者がそれを統括して、管理してゐなければならなかつた。 ( 三島由紀夫「折口信夫氏の思ひ出」ーー折口信夫全集第27巻月報、1956年)



………………… 


以下、復習のためにいくら寄り道する


◼️現実界➡︎喪われた母胎

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16  Décembre  1959)

享楽の対象としてのモノは、快原理の彼岸にあり、喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…au niveau de l'Au-delà du principe du plaisir…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)

例えば胎盤は、個人が出産時に喪なった己れ自身の部分を確かに表象する。それは最も深い意味での喪われた対象を徴示する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance, et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond.  ](Lacan, S11, 20 Mai 1964)


◼️女陰の奈落

『夢解釈』の冒頭を飾るフロイト自身のイルマの注射の夢、おどろおどろしい不安をもたらすイマージュの亡霊、私はあれを《メドゥーサの首 》と呼ぶ[rêve de l'injection d'Irma, la révélation de l'image terrifiante, angoissante, de ce que j'ai appelé  « la tête de MÉDUSE »]。あるいは、名づけようもない深淵の顕現[la révélation abyssale de ce quelque chose d'à proprement parler innommable]と。あの喉の背後には、錯綜した場なき形態、まさに原初の対象そのものがある[l'objet primitif par excellence,]…すべての生が出現する女陰の奈落 [- l'abîme de l'organe féminin, d'où sort toute vie]、すべてを呑み込む湾門であり裂孔[- aussi bien le gouffre et la béance de la bouche, où tout est englouti,   ]、すべてが終焉する死のイマージュ [- aussi bien l'image de la mort, où tout vient se terminer,]…(Lacan, S2, 16 Mars 1955)


◼️現実界の享楽は死への道

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

享楽は現実界にある。現実界の享楽である[la jouissance c'est du Réel.  …Jouissance du réel](Lacan, S23, 10 Février 1976)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)


◼️暗黒の母胎回帰欲動

以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, ](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib. ](フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)



◼️沈黙の死の女神

ここ(シェイクスピア『リア王』)に描かれている三人の女たちは、生む女、パートナー、破壊者としての女 [Vderberin Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin]である。それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう[Oder die drei Formen, zu denen sich ihm das Bild der Mutter im Lauf des Lebens wandelt: ]


すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ恋人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地[Die Mutter selbst, die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt, und zuletzt die Mutter Erde]である。


そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神[die dritte der Schicksalsfrauen, die schweigsame Todesgöttin]のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』1913年)



いるよいるよ、ゴーギャンにも三人目の女、沈黙の死の女神が。



ゴーギャン『我々はどこから来たのか  我々は何者か  我々はどこへ行くのか』
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?(1897年)


以上閑話休題ーー、



話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。(折口信夫「鏡花との一夕 」)

閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼が出来上り、それからお取り膳の差しつ押えつ、まことにお浦山吹の一場は、次の巻の出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒せよ。ーー(永井荷風『妾宅』)



あだしごとはさておきつーー、匕である、重要焦点は。


⚫️魂のふる郷

すさのをのみことが、青山を枯山なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣が国」は、われ〳〵の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。(折口信夫「妣国へ・常世へ 」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)

……「妣が国」と言ふ語が、古代日本人の頭に深く印象した。妣は祀られた母と言ふ義である。(折口信夫「最古日本の女性生活の根柢」『古代研究 民俗学篇第一』1929年)


ーー《匕は、妣(女)の原字で、もと、細いすき間をはさみこむ陰門をもった女や牝(めす)を示したもの。》(漢字源)


………………



とはいえ、ーーである。死の前年1969年の三島由紀夫は、芸術の原質かつ素材としての不気味で不健全なものを作品で癒す、と言っている。


私はかつて民俗学を愛したが、徐々にこれから遠ざかった。そこにいひしれぬ不気味な不健全なものを嗅ぎ取ったからである。

しかしもともと不気味で不健全なものとは、芸術の原質であり又素材である。それは実は作品によって癒やされてゐるのだ。それをわざわざ、民俗学や精神分析学は、病気のところへまでわれわれを連れ戻し、ぶり返させて見せてくれるのである。(三島由紀夫『日本文学小史』第一章「方法論」1969年)


1965年の三島由紀夫は、折口信夫をモデルにした『三熊野詣』を含んだ短編集を上梓しているが、「あとがき」には「疲労」「無力感」「酸え腐れた心情のデカダンス」等々とあり、自作ながら「いひしれぬ不吉なものを感じる」としている。この作品はおそらく癒しの失敗だったのだろう・・・


何はともあれ、ヨイコのみなさんは、病気のところへまでわれわれを連れ戻し、ぶり返させて見せてくれる民俗学や精神分析学などにはケッシテかかわらぬように。真の深淵に魅入られたら芸術創造程度では病気を癒せないのは、三島の自死が示している。《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節、1886年)


もっともバタイユはよくもったよ、65歳まで。《何ものかが私を書く行為に駆り立てている、思うに、狂ってしまうことの恐怖が。[Ce qui m'oblige d'écrire, j'imagine, est la crainte de devenir fou]》(バタイユ『ニーチェについて』1945年)



ジョルジュ、あんたわかってる? 私の生死はあんたにあるのよ。この今、どちらにもとっても近くにいるの。…ジョルジュ、たぶん《あたしはあんたを愛してないわ》。[Georges, comprends-tu : ma vie et ma mort m'appartiennent. En ce moment je suis aussi près de l'une que de l'autre […] Georges peut-être que « je ne t'aime pas »]


ジョルジュ、あたし知ってる、きのう何が起こったか。…


あんた、あたしを侮辱したわ、私に《弱さ》を語って。よく言えたもんだわ。あんたなんか2時間だって独りで過ごす力がないじゃない。いつも誰かが傍らにいなくちゃ何もできない男。やりたいことを何もやれない男。[tu osais m'accabler en ma parlant de « faiblesse » tu oses encore toi qui n'as pas la force de passer deux heures seul, toi qui as besoin qu'un autre être à tes côtés t'inspire tous tes gestes, toi qui ne peut pas vouloir ce que tu veux](コレット・ぺニョ書簡、バタイユ宛、Colette Peignot, Une lettre à Georges Bataille, 1938年11月)


私のように天分に恵まれた人間は世界にはいないわ、冥界の力よ、愛しているものを破壊するの。 Aucun être au monde n'est doué comme moi de ce pouvoir infernal : détruire ce qu'il aime. (Colette Peignot, 1935ーーバタイユ宛に書かれたが未投稿)


マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は方脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりかね。」「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」(ジョルジュ・バタイユ『マダム・エドワルダMadame Edwarda』1937年)


三島由紀夫はもちろん早い段階で、毛むくじゃらの蛸が沈黙の死の女神であるのをしっかり受け止めていた筈である・・・


……………






私は、1925 年以来、これらの写真の 1 枚を所有している。それは、フランスの精神分析学者の草分けの一人であるボレル博士からもらったものである。この 1 枚は、私の人生において、決定的な役割を持った。私は、この恍惚としている(?)ようでもあれば、同時に耐え難くもあるこのイマージュに絶えることなく付き纏われてきた。私は、サド侯爵は、現実の処刑――それは彼が夢想しながらも接し得ないものであった――に立ち会うことがなかったが、そうだとしても、処刑のイマージュ像から何を引き出し得たろうかと考える。彼は、その図像を、あれやこれやのやり方で、たえず自分の目の前に掲げたことであろう。けれども、サドは孤独の中において、少なくとも、相対的な孤独の中において、それを見ようとしたであろう。その孤独なしには、恍惚的で悦楽的な結果はありえないからである。

Je possède, depuis 1925, un de ces clichés (reproduit p. 234). Il m’a été donné par le Dr. Borel, l’un des premiers psychanalystes français. Ce cliché eut un rôle décisif dans ma vie. Je n’ai pas cessé d’être obsédé par cette image de la douleur, à la fois extatique (?) et intolérable. J’imagine le parti que, sans assister au supplice réel, dont il rêva, mais qui lui fut inaccessible, le marquis de Sade aurait tiré de son image: cette image, d’une manière ou de l’autre, il l’eût (sic) incessamment devant les yeux. Mais Sade aurait voulu le voir dans la solitude, au moins dans la solitude relative, sans laquelle l’issue extatique et voluptueuse est inconcevable. (バタイユBataille『エロスの涙 Les Larmes D'Eros』)


ーーラカンの診断ではサドはサディストではなくマゾヒストである[参照]。ひょっとしてラカンはバタイユからそれを学んだのかも知れない。ところでラカンの娘ジュディス・ミレールの洗礼名はジュディス・バタイユJudith Bataille だった理由をご存知だろうか。いやいやそんなことははどうでもいいことである・・・


重要なのは享楽つまり欲動の本質はマゾヒズムであり、自己破壊欲動であることだ。

享楽の本質はマゾヒズムである[La jouissance est masochiste dans son fond](Lacan, S16, 15 Janvier 1969)

欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)



ニーチェもダ・ヴインチも自己破壊が人間の根にあるというのはフロイト・ラカンと同じ。

より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)

我々の往時の状態回帰(原カオスへの回帰 ritornare nel primo chaos)への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。…人は自己破壊憧憬[desidera la sua disfazione]をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。

la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume[…] desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)



このマゾヒズム的自己破壊欲動こそ死の欲動にほかならない。

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



そして究極的なマゾヒズムとは沈黙の死の女神への固着にかかわる。


ところで蚊居肢子はキクラデス彫刻の膨大なコレクションがある。むかしは欠けたのやとくに半割れのものなら、ひどく安い値で手に入ったが、今はひとつ売れば百年ほど生きられるらしい。





カイエ散人のコレクションは頭部だけのものだが、いまでは沈黙の女神の癒しに使いすぎたせいで、いくつかは黄ばんで斑らになってしまっている。

なお今回の蚊居肢ブログは日記なのでご注意を。

日記というものは嘘を書くものね。私なんぞ気分次第でお天気まで変えて書きます。(円地文子ーー江藤淳『女坂』解説より)




ラカンはマゾヒズム において、達成された愛の関係を享楽する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある。自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである。

Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre. L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..  (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001)





先に「母への固着」だけではなく、「自己身体への固着」とあるのは、女性の場合、沈黙の死の女神が股の間にあるからだ。すなわち女性は男性に比べて自傷行為が格段に多いのは、蛸への固着せいである(タブンだぜ、信じ込み過ぎるなよ)。


そういえば、最近、蚊居肢子はタコサラダに凝ってんだ。10秒ぐらい湯通して、あとはセロリ、じゃがいも、オリーブオイル、塩胡椒にピュアアンチョビの魚醤を少々混ぜるだけだが、白ワインにピッタリで、暗黒の血みどろの蛸に対するすこぶる効果的な癒しになるね。みなさんも長生きのために是非お試しを(ちょっと臭い、だが質のいい魚醤は不可欠だよ)。ドゥルーズが『プルーストとシーニュ』で言った《存在と無との間で存続している矛盾[ la contradiction subsistante de l'être et du néant]》としての感覚的シーニュ[signes sensibles]に対する癒しとしての《芸術のシーニュの純粋な歓び[joie pure des signes de l'art]》効果が抜群だね。



ま、もちろん井伏鱒二でもいいがね、


春さん蛸のぶつ切りをくれえ

それも塩でくれえ

酒はあついのがよい

それから枝豆を一皿



僕には春さんいないからな

嫁さんだと感覚のシーニュから逃れようがない




夜になると月光が囁くからな

塩田明彦『月光の囁き』




だから当地産の魚醤で芸術のシーニュにするんだ

手に入りにくい伊のコラトゥーラなんて洒落たもんじゃなくて充分だね


しかし上のレオナルドってのは実にいいね、

とくに膝の感じが。

馨しい恥垢の匂だってしてきそうだよ






《老婆に膝枕をして寝ていた。膝のまるみに覚えがあった。姿は見えなかった。ここと交わって、ここから産まれたか、と軒のあたりから声が降りた。若い頃なら、忿怒だろうな、と覚めて思った。》(古井由吉『辻』「白い軒」2006年)