以前、次の文を拾って何回か掲げたことがある。
三島の初期の母子関係は異様なものであった。多くの人がその異様さの一端として引用するが,『伜』 によれば,三島の授乳は4時間おきで,祖母・夏子によって管理されており,授乳時間も10分か15分と決まっていたという(安藤,1998)。また,早くから母親と引き離され,ヒステリー持ちの祖母のカビ臭い部屋に置かれ,祖母の世話役的な育てられ方をした。近所の男の子との遊びも悪戲を覚えてはいけないとの理由で禁止され,女の子として育てられた。祖母の名を差し置いて最初に母の名を呼ぶことが祖母のヒステリーを誘発することを恐れた幼い三島は,いつも祖母の名を先に呼ぶよう気を遣っていた(平岡, 1990)。 |
こうした陰鬱な時間は,三島が16歳で書いた処女作『花盛りの森(1944)』の中に,「祖母は神経痛をやみ,痙攣を始終起こした。(中略)痙攣が,まる一日,ばあいによっては幾夜さもつづくと,もっと顕著なきざしが表れてきた。それは『病気』がわがものがおに家じゅうにはびこることである」と,幼い感受性でとらえた異常さと緊張が描写されている。ここには,①母性の早期の剥奪,②性の同一性の混乱,③依存を体験する前に大人に対する気遣いや世話を身につけてしまったことなど,世代の錯綜の問題などがすでに孕まれており,三島自身が初期に拘るようになるに十分な人生のスタートであった。(井原成男「ロールシャッハ・テストプロトコルからみた 三島由紀夫の母子関係と同性愛」2015年) |
平岡梓の『伜』は読んだことがなかったのだが、たまたまネット上に引用されているのを昨晩見出した。
……私たちは二階の方に住んでおりましたが、母は公威を自分の枕元よりはなさず、常に懐中時計を持っておりまして、四時間ごとに正確にベルを二階に鳴らして参りました。公威の授乳は四時間おきでなければならず、またその飲む間の時間もきめてあったのです。私はその時刻が近づいてきますと、もうオッパイが張って来てとても苦しくなり、公威はさぞやお腹が空いているだろうと、この時は公威を抱いて思う存分飲ませてやりたい気持でいくどか泣いたことがありました。公威の方も一刻も早く私のふところへと同じ思いでしたろう。かくて生まれ落ちるとすぐに産みの親の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命は決まってしまったと思いました。(平岡梓『倅・三島由紀夫』1972年) |
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父母は二階に住んでいた。二階で赤ん坊を育てるのは危険だという口実の下に、生れて四十九日目に祖母は母の手から私を奪いとった。しじゅう閉て切った・病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた。(三島由紀夫『仮面の告白』1949年) |
これはやっぱり究極の離乳トラウマだろうな、
ナルシスの神話が本質的に表現している自殺傾向とイマージュの関係は、この結び目にある。我々の見解では、この自殺傾向は、フロイトが死の本能、さらには原マゾヒズムの名のもとにメタ心理学の中に位置づけようとしたものを表している。我々にとって、人間の死は、それが思考されるずっと前に、ーーある意味でそれはフロイトの思考において常に非常に曖昧なものでありながらーー、人が経験する出産トラウマから生理的未熟児の最初の6か月が終わるまで、そして後の離乳トラウマにおいてまで反響する。 |
C'est dans ce nœud que gît en effet le rapport de l'image à la tendance suicide que le mythe de Narcisse exprime essentiellement. Cette tendance suicide qui représente à notre avis ce que Freud a cherché à- situer dans sa métapsychologie sous le nom d'instinct de mort ou encore de masochisme primordial, dépend pour nous du fait que la mort de l'homme, bien avant qu'elle se reflète, de façon d'ailleurs toujours si ambiguë, dans sa pensée, est par lui éprouvée dans la phase de misère originelle qu'il vit, du traumatisme de la naissance jusqu'à la fin des six premiers mois de prématuration physiologique, et qui va retentir ensuite dans le traumatisme du sevrage. |
(Lacan « Propos sur la causalité psychique », Écrits, p. 186-187. 1946) |
口唇的分離(離乳)と出産分離とのあいだには類似性がある。il у а analogie entre le sevrage oral et le sevrage de la naissance (Lacan, S10, 15 Mai, 1963) |
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死への傾斜を、ラカンは離乳について語る瞬間に位置づけたが、それはラカンが死と母との結びつきを明確に表現しているからであり、これは彼のテキストすべてに現前している。死の幻想、死への呼びかけ、自殺への坂道、これらはすべて臨床に基づいており、ラカンはそれをまったく否定していないが、母の側に位置している。母のイマーゴがこの理由を提供する。どういう意味か?これは、母は原喪失・乳房の喪失の場を占めている。主体は、(後年の人生で)享楽の喪失が起こった時には常に、異なる強度にて、母なるイマーゴを喚起する。 |
Cette tendance à la mort, si je l'ai située au moment où Lacan parle du sevrage, c'est parce que c'est là qu'il articule - et c'est présent dans tout son texte - la liaison de la mort et de la mère. Tout ce qui est fantasme de mort, appel de la mort, pente au suicide - c'est fondé dans la clinique et Lacan ne le démentira pas plus tard - est situé sur le versant de la mère. C'est l'imago de la mère qui vient en donner la raison. Ca veut dire quoi? Ca veut dire que la mère préside à la perte primitive, celle du sein. L'imago maternelle est rappelée au sujet, avec une intensité variable, chaque fois qu'une perte de jouissance intervient. |
(J.-A. Miller, DES REPONSES DU REEL, 14 mars 1984) |
三島由紀夫の自殺をこの精神分析的解釈に「直ちに」に結びつけるつもりはないがね、
とはいえーーだな・・・
「仮面の告白」といふ一見矛盾した題名は、私といふ一人物にとつては仮面は肉つきの面であり、さういふ肉つきの仮面の告白にまして真実な告白はありえないといふ逆説からである。人は決して告白をなしうるものではない。ただ稀に、肉に深く喰ひ入つた仮面だけがそれを成就する。(三島由紀夫「作者の言葉」) |
この本は私が今までそこに住んでゐた死の領域へ遺さうとする遺書だ。この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である。 私は無益で精巧な一個の逆説だ。この小説はその生理学的証明である。私は詩人だと自分を考へるが、もしかすると私は詩そのものなのかもしれない。詩そのものは人類の恥部(セックス)に他ならないかもしれないから。(三島由紀夫「『仮面の告白』ノート」) |
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あるいはーー、
「仮面の告白」に書かれましたことは、モデルの修正、二人の人物の一人物への融合、などを除きましては、凡て私自身の体験から出た事実の忠実な縷述でございます。この国にも、また外国にも、 Sexual inversion の赤裸々な告白的記述は類の少ないものであると存じます。わづかにジッドの「一粒の麦」がございますが、これはむしろ精神史的な面が強調されてをります。ジャン・コクトオの Livre blanc といふ稀覯本を見ましたが、これも一短篇にすぎませぬ。私は昨年初夏にエリスの性心理学の Sexual inversion in Man や Love and Pain を読みまして、そこに掲載された事例が悉く知識階級のものである点で、(甚だ滑稽なことですが)、自尊心の満足と告白の勇気を得ました。当時私はむしろ己れの本来の Tendenz についてよりも、正常な方向への肉体的無能力について、より多く悩んでをりましたので、告白は精神分析療法の一方法として最も有効であらうと考へたからでございました。(三島由紀夫「式場隆三郎宛ての書簡」昭和24年7月19日付) |
告白と自己防衛とはいつも微妙に噛み合っているから、告白型の小説家を、傷つきにくい人間だなどと思いあやまってはならない。彼はなるほど印度の行者のように、自ら唇や頬に針を突きとおしてみせるかもしれないが、それは他人に委せておいたら、致命傷を与えられかねないことを知っているから、他人の加害を巧く先取しているにすぎないのだ。とりもなおさず身の安全のために! 小説家になろうとし、又なった人間は、人生に対する一種の先取特権を確保したのであり、それは同時に、そのような特権の確保が、彼自身の人生にとって必要不可欠のものだったということを、裏から暗示している。すなわち、彼は、人生をこの種の『客観性』の武装なしには渡ることができないと、はじめに予感した人間なのだ。 客観性の保証とは何か?それは言葉である。(三島由紀夫『小説とは何か』1970年) |
三島由紀夫も芥川龍之介と同様、母の乳房の喪失の病気であるのは紛いようがないね、ーー《小児が母の乳房を吸うことがすべての愛の関係の原型であるのは十分な理由がある。[Nicht ohne guten Grund ist das Saugen des Kindes an der Brust der Mutter vorbildlich für jede Liebesbeziehung geworden. ]》(フロイト『性理論』第3篇、1905年)
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。・・・ 僕は時々幻のように僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守っているように感じている。… 僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年) |
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信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元来体の弱かつた母は一粒種の彼を産んだ後さへ、一滴の乳も与へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出来ない相談の一つだつた。彼はその為に生まれ落ちた時から牛乳を飲んで育つて来た。それは当時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝台所へ来る牛乳の壜を軽蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。… 信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の秘密だつた。誰にも決して知らせることの出来ぬ彼の一生の秘密だつた。(芥川龍之介「大導寺信輔の半生」1925年) |
で、最晩年こう書いているわけだ。 |
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。(芥川龍之介「或旧友へ送る手記」昭和二年七月、遺稿) |
マインレンデルは頗る正確に死の魅力を記述してゐる。実際我々は何かの拍子に死の魅力を感じたが最後、容易にその圏外に逃れることは出来ない。のみならず同心円をめぐるやうにぢりぢり死の前へ歩み寄るのである。(芥川龍之介「侏儒の言葉」1927(昭和2)年) |
さあてっとーー、・・・いずれにせよ、芥川と三島は似てるよ、《人生に対して白い牙を出してゐる》ところが。
三人は車の中で余り話さなかつたがただ自分は今まで同じ席上にゐた正宗氏のことを思ひ出してその人が自分には分り難いと云ふと、芥川は「あの人は非常に弱い人で人生が恐しいからいつも人生に対して白い牙を出してゐるのだ。僕には実によく分る」 と云つた。果してそれが正宗氏をよく解釈してゐるかどうか知らないが少くともその言葉は芥川自身を可なりよく語つてゐるやうに思ふ。(佐藤春夫「芥川龍之介を憶ふ」1928(昭和3)年) |
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私は自殺をする人間がきらひである。自殺にも一種の勇気を要するし、私自身も自殺を考へた経験があり、自殺を敢行しなかつたのは単に私の怯懦からだと思つてゐるが、自殺する文学者といふものを、どうも尊敬できない。武士には武士の徳目があつて、切腹やその他の自決は、かれらの道徳律の内部にあつては、作戦や突撃や一騎打と同一線上にある行為の一種にすぎない。だから私は、武士の自殺といふものはみとめる。しかし文学者の自殺はみとめない。〔・・・〕 あるひは私の心は、子羊のごとく、小鳩のごとく、傷つきやすく、涙もろく、抒情的で、感傷的なのかもしれない。それで心の弱い人を見ると、自分もさうなるかもしれないといふ恐怖を感じ、自戒の心が嫌悪に変はるのかもしれない。しかし厄介なことは、私のかうした自戒が、いつしか私自身の一種の道徳的傾向にまでなつてしまつたことである。〔・・・〕 自殺する作家は、洋の東西を問わず、ふしぎと藝術家意識を濃厚に持つた作家に多いやうである。〔・・・〕芥川は自殺が好きだつたから、自殺したのだ。私がさういふ生き方をきらひであつても、何も人の生き方に咎め立てする権利はない。(三島由紀夫「芥川龍之介について」1954(昭和29)年) |
ああ、悪い癖だなあ、最近ボクは文学を精神分析なんていうヤボな学問を通して読んでしまう傾向があるんんだ。
去勢は、身体から分離される糞便や離乳における母の乳房の喪失という日常的経験を基礎にして描写しうる。Die Kastration wird sozusagen vorstellbar durch die tägliche Erfahrung der Trennung vom Darminhalt und durch den bei der Entwöhnung erlebten Verlust der mütterlichen Brust〔・・・〕 死の不安[Todesangst]は、去勢不安[Kastrationsangst]の類似物として理解されるべきである。自我が反応するその状況は、保護的超自我ーー運命の力ーーに見捨てられること[das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten]であり、危険に対するすべての保障が消滅してしまうことである。 die Todesangst als Analogon der Kastrationsangst aufzufassen ist und daß die Situation, auf welche das Ich reagiert, das Verlassensein vom schützenden Über-Ich – den Schicksalsmächten – ist, womit die Sicherung gegen alle Gefahren ein Ende hat. (フロイト『制止、症状、不安』第7章、1926年) |
愛の喪失に対する不安[die Angst vor dem Liebesverlust]は明瞭に、母の不在を見出したときの幼児の不安、その不安の後年の生で発展形である。あなた方は悟るだろう、この不安によって示される危険状況がいかにリアル[reale]なものかを。母が不在あるいは母が幼児から愛を退かせたとき、幼児の欲求の満足はもはや確かでない。そして最も苦痛な緊張感に曝される。次の考えを拒絶してはならない。つまり不安の決定因はその底に出生時の原不安の状況[die Situation der ursprünglichen Geburtsangst] を反復していることを。それは確かに母からの分離[Trennung von der Mutter]を示している。 |
die Angst vor dem Liebesverlust, ersichtlich eine Fortbildung der Angst des Säuglings, wenn die Mutter vermißt. Sie verstehen, welche reale Gefahrsituation durch diese Angst angezeigt wird. Wenn die Mutter abwesend ist oder dem Kind ihre Liebe entzogen hat, ist es ja der Befriedigung seiner Bedürfnisse nicht mehr sicher, möglicherweise den peinlichsten Spannungsgefühlen ausgesetzt. Weisen Sie die Idee nicht ab, daß diese Angstbedingungen im Grunde die Situation der ursprünglichen Geburtsangst wiederholen, die ja auch eine Trennung von der Mutter bedeutete. |
(フロイト『新精神分析入門』第32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
いけねいけね、文学はもっと純粋に味わないとな、
ボクの三島由紀夫は何よりもまず『春の雪』のあの場面で、純粋に愛したんだ。
急に聰子の中で、爐の戸がひらかれたやうに火勢が増して、ふしぎな焔が立上つて、雙の手が自由になつて、清顯の頬を押へた。その手は清顯の頬を押し戻さうとし、その唇は押し戻される清顯の唇から離れなかつた。濡れた唇が彼女の拒みの餘波で左右に動き、清顯の唇はその絶妙のなめらかさに醉うた。それによつて、堅固な世界は、紅茶に涵された一顆の角砂糖のやうに融けてしまつた。そこから果てしれぬ甘美と融解がはじまつた。 清顯はどうやつて女の帶を解くものか知らなかつた。頑ななお太鼓が指に逆らつた。そこをやみくもに解かうとすると、聰子の手がうしろへ向つてきて、清顯の手の動きに強く抗しようとしながら微妙に助けた。二人の指は帶のまはりで煩瑣にからみ合ひ、やがて帶止めが解かれると、帶は低い鳴音を走らせて急激に前へ彈けた。そのとき帶は、むしろ自分の力で動きだしたかのやうだつた。それは複雑な、収拾しやうのない暴動の發端であり、着物のすべてが叛亂を起したのも同然で、清顯が聰子の胸もとを寛ろげようとあせるあひだ、ほうぼうで幾多の紐がきつくなつたりゆるくなつたりしてゐた。彼はあの小さく護られてゐた胸もとの白の逆山形が、今、目の前いつぱいの匂ひやかな白をひろげるのを見た。 |
聰子は一言も、言葉に出して、いけないとは言はなかつた。そこで無言の拒絶と、無言の誘導とが、見分けのつかないものになつていた。彼女は無限に誘ひ入れ、無限に拒んでゐた。ただ、この神聖、この不可能と戰つてゐる力が、自分一人の力だけではないと、清顯に感じさせる何かがあつた。 それは何だつたろう。清顯は、目をつぶつたままの聰子の顔がすこしづつ紅潮してきて、そこに放恣な影の亂れるのをまざまざと見た。その背を支へる清顯の掌に、はなはだ微妙な、羞恥に充ちた壓力が加はつてゆき、彼女はさうして、あたかも抗しかねたかのやうに、仰向きに倒れた。 清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。 |
やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。 ――二人は疊に横たはつて、雨のはげしい音のよみがへつた天井へ目を向けてゐた。彼らの胸のときめきはなかなか静まらず、清顯は疲れはおろか、何かが終つたことさへ認めたがらない昂揚の裡にゐた。しかし二人の間に、少しづつ暮れてくる部屋に募る影のやうな、心殘りの漂つてゐることも明らかになつた。彼は又、源氏襖のむかうに、かすかな、年老いた咳拂ひをきいたやうに思つて、身を起しかけたが、聰子がそつと彼の肩を引いて引止めた。 やがて聰子は、一言もものを言はずに、かうした心殘りを乗り越えて行つた。そのとき清顯は、はじめて聰子のいざなひのままに動くことのよろこびを知つた。あのあとでは何もかも恕すことができたのである。 清顯の若さは一つの死からたちまちよみがえり、今度は聰子のなだらかな受容の橇に乗つた。彼は女に導かれるときに、こんなにも難路が消えて、なごやかな風光がひろがるのをはじめて覺つた。暑さのあまり、清顯はすでに着てゐるものを脱ぎ捨ててゐた。そこで肉のたしかさは、水と藻の抵抗を押して進む藻刈舟の舟足のやうに、的確に感じられた。清顯は、聰子の顔が何の苦痛も泛べず、微光のさすやうな、あるかなきかの頬笑みを示してゐるのをさへ訝らなかつた。彼の心にはあらゆる疑惑が消えた。〔・・・〕 |
聰子が言つた最初の言葉は、清顯のシャツをとりあげて、 「お風邪を召すといけないわ。さあ」 と促した言葉だつた。彼がそれを亂暴につかまうとすると、聰子は輕く拒んで、シャツを自分の顔に押し當て、深い息をしてから返した。そのとき聰子が手を鳴らすのにおどろかされた。思はせぶりな永い間を置いて、源氏襖をひらいて、蓼科が顔を出した。 「お召しでございますか」 聰子はうなづいて、身のまわりに亂れた帶のはうを目で指し示した。蓼科は、襖を閉めると、清顯のはうへは目もくれずに、無言で疊をゐざつて来て、聰子の着衣と帶を締めるのを手つだつた。それから部屋の一隅の姫鏡臺を持つてきて、聰子の髪を直した。この間、清顯は所在なさに死ぬやうな思ひがしてゐた。部屋にはすでにあかりが點ぜられ、女二人の儀式のやうなその永い時間に、彼はすでに無用の人になつてゐた。(三島由紀夫「春の雪」『豊饒の海』第一巻 P185-187) |
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とはいえこれだって不純に読むと、聰子はオッカサマで蓼科はバアサンなんだよな。ああよくないねえ、久しぶりに読み返すとこのテイタラクになってしまっていて。