前回から引き続くが、自殺行為はそのすべてが死の欲動によるものではないよ。
あらゆる形の自殺に、演技の意識が伴ふことを、心理学者はよく知つているが、私には自殺という行為は、他のあらゆる人間行為と同様、あらはな、あるひは秘められた不純な動機を手がかりにして、はじめて可能になるものだと思はれる。(三島由紀夫「心中論」1958年) |
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この三島由紀夫の云う、演技の意識が伴う秘められた不純な動機の自殺は、ラカン的には死の欲動による自殺ではない。若き三島は「あらゆる形の自殺」と言っているが、これは精神分析的にはいささかムリがある。
ラカンには、パッセージアクト(行為の遂行)による自殺とアクティングアウト(行動化)による自殺の区別があるが、前者がリアルな死の欲動によるもので、後者はイマジネールなナルシシズムによる[参照]。
現実界への移行が、パッセージアクトにはある[à passer dans ce réel, dans un passage à l'acte](Lacan, S10, 16 janvier 1963) |
アクティングアウトは本質的にデモンストレーションである[L'acting-out essentiellement, c'est la monstration](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
最も簡単に言えば「現実界の非意味/想像界の意味」の相違。
別の言い方をすれば、リビドーの身体とイマジネールな身体による区別である。
主体の自傷行為は、イマジネールな身体ではなくリビドーの身体による[l'auto mutilation du sujet (…) le corps qui n'est pas le corps imaginaire mais le corps libidinal]( J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6 - 16/06/2004) |
マゾヒズム用語が意味するのは、何よりもまず死の欲動に苛まれる主体である。リビドーはそれ自体、死の欲動である。したがってリビドーの主体は、死の欲動に苦しみ苛まれる。 Le terme de masochisme veut dire que c'est d'abord le sujet qui pâtit de la pulsion de mort. La libido est comme telle pulsion de mort, et le sujet de la libido est donc celui qui en pâtit, qui en souffre. (J.-A. Miller, LES DIVINS DÉTAILS, 3 mai 1989) |
なおマゾヒズムというとき、健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンがあることに注意する必要がある。死の欲動に関わる自傷行為は、病理的ヴァージョンである。 |
ラカンはマゾヒズムにおいて、満たされた愛の関係を享受する健康的ヴァージョンと病理的ヴァージョンを区別した。病理的ヴァージョンの一部は、対象関係の前性器的欲動への過剰な固着を示している。それは母への固着であり、自己身体への固着でさえある[Il distinguera, dans le masochisme, une version saine du masochisme dont on jouit dans une relation amoureuse épanouie, et une version pathologique, qui, elle, renvoie à un excès de fixation aux pulsions pré-génitales de la relation d'objet. Elle est fixation sur la mère, voire même fixation sur le corps propre] 自傷行為は自己自身に向けたマゾヒズムである[L'automutilation est un masochisme appliqué sur soi-même..] (Éric Laurent発言) (J.-A. Miller, LE LIEU ET LE LIEN, 7 février 2001) |
ーーここで言っているのは、死に至らなくても自傷行為は、マゾヒズム的リビドーの身体だということだが、怨恨の対象に対する当てつけ等としてリストカットなどをする場合は、イマジネールなアクティングアウトの水準にあるから、その意味では、すべての自傷行為がパッセージアクトとしての死の欲動ではないと言える。
とはいえ、この想像界と現実界の自殺の区別自体、それほど厳密ではないおおよそのものである。というのは、想像界と現実界は重なり合っているから(ジャック=アラン・ミレールは2011年のセミネールでは、《(想像的)ナルシシズムの背後には死がある[derrière le narcissisme, il y a la mort.]》(J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 06/04/2011)と言っている)。
J(Ⱥ)は「斜線を引かれた身体の享楽」あるいは「身体の穴の享楽」等と読まれるが、このJ(Ⱥ)が死の欲動のラカンマテームである(他方、イマジネールな身体というときは、想像界と象徴界の重なり目のSENSの箇所で、これは「意味の享楽」joui-sens であり、「ナルシシズムの享楽」を含意しているが、ここでの享楽は反復と等価)。
穴Ⱥの意味は次の通り。
現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice) |
欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である[La pulsion de mort c'est le Réel …c'est la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |