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2024年1月16日火曜日

戦争・固着への退行・祝祭・デーモン


 少し前、フロイトの『戦争と死に関する時評』からいくつかのパラグラフを引用したが、ここではまずそのなかからエッセンス文のみを再掲する。


心的発達において、すべての初期の発達段階は、そこから生じた後の段階と並行して存続する。ここでの継承には共存も含まれるが、一連の変容全体が同じ素材に対して適用されている。より初期の心的状態は長いあいだ現れないかもしれないが、それにも拘らず現前しており、いつでも心的力の表現様式となり、あたかもすべての後の発達が無効にされたり取り消されたりするかのように実に唯一の状態になりうる。


心的発達のこの並外れた可塑性は方向性に関しては制限がないわけではない。それは特殊な退行作用[besondere Fähigkeit zur Rückbildung – Regression –]として説明しうる。というのは、後のより高次な段階が一旦放棄されると再び取り返せない事態がとしばしば起こるから。しかし原初の段階へはいつでも戻りうる。原初の心的状態は、言葉の十全な意味で、不滅である[das primitive Seelische ist im vollsten Sinne unvergänglich]。


精神疾患と呼ばれるものは、一般の人には知的生や心的生が破壊されているという印象を必然的に与える。だが実際には、破壊は後に獲得されたものや発達にのみ適用される。精神疾患の本質は、情動的生と機能が以前の状態に回帰することにある[Das Wesen der Geisteskrankheit besteht in der Rückkehr zu früheren Zuständen des Affektlebens und der Funktion]。


したがって、文化に対する我々の感受性の基礎となる欲動の変容[Triebumbildung]も、人生の影響によって永久的または一時的に取り消される可能性がある。戦争の影響は、このような退行を生み出す力のうちのひとつであることは疑いない[Ohne Zweifel gehören die Einflüsse des Krieges zu den Mächten, welche solche Rückbildung ( Regression) erzeugen können]

(フロイト『戦争と死に関する時評』Zeitgemasses über Krieg und Tod, 1915年)


戦争の当事者が退行するだけではなく、戦争情報を眺めているだけの人間もかなりの割合で退行するんだろうよ。宇露戦争からガザジェノサイドまで、これだけ長いあいだ続く情報をリアルタイムで追っている人が「精神疾患」気味になってもやむ得ないね。ボクもいくらかその気味があることを認めるのに吝かではない。もっともある種の人に見られる「もっとやり返せ! ヤレヤレ!」というところまではマダ行っていないつもりだが。

退行というのは固着への退行で、人はそれぞれ各人各様の固着点があるというのがフロイトだ、ーー《(発達段階の)展開の長い道のりにおけるどの段階も固着点となりうる[Jeder Schritt auf diesem langen Entwicklungswege kann zur Fixierungsstelle]》(『性理論三篇』1905年)

いくつか固着と退行の関係を示す文を掲げておこう。


固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、その機能はその固着へ退行することで外部の困難を回避しやすくなる[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, desto eher wird die Funktion den äußeren Schwierigkeiten durch Regression bis zu jenen Fixierungen ausweichen](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年)

現実では満たされることのないリビドーの鬱積は、過去の固着への退行の助けを借りて、抑圧された無意識を通して捌け口を見出す。Eine nicht real zu befriedigende Libidostauung schafft sich mit Hilfe der Regression zu alten Fixierungen Abfluß durch das verdrängte Unbewußte. (フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)

前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年)


ーーこの固着は幼児期の欲動の固着(リビドーの固着)だ。

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)

幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)



で、欲動の固着点へ退行したら、場合によってはーータトエバーー、「最後の一人まで殺し合う」祝祭を希求することになりかねない。


私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動[Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb]による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である[Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten.]。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年)


➡︎殺人や犯罪、革命や戦争は人類の祝祭


ところで、この記事を書いているのは、実は中井久夫の次の文を思い出したせいなんだ。



何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。〔・・・〕


思い返せば、著述とは、宇宙船の外に出て作業する宇宙飛行士のように日常から離脱し、頭蓋内の虚無と暗黒とに直面し、その中をさしあたりあてどなく探ることである。その間は、ある意味では自分は非常に生きてもいるが、ある意味ではそもそも生きていない。日常の生と重なりあってはいるが、まったく別個の空間において、私がかつて「メタ私」「メタ世界」と呼んだもの、すなわち「可能態」としての「私」であり「世界」であり、より正確には「私 -世界」であるが、その総体を同時的に現前させれば「私」が圧倒され破壊されるようなもの、たとえば私の記憶の総体、思考の総体の、ごく一部であるが確かにその一部であるものを、ある程度秩序立てて呼び出さねばならなかった。(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)


「創造的」になるためには確かに退行しないとな、つまり幼児期への退行は悪いことばかりじゃない。芸術家に退行が見られないなら「凡庸な」芸術家、つまり芸能人に過ぎない。ある種の傑出した芸術家には原家への退行さえある。「原家」とは何かは敢えて言うまでもなかろう。


芸術家でなくても人はみな原家の類似品のなかが最も居心地がよい筈である。


(精神病棟の設計に参与するにあたって)、設備課の若い課員から、人間がいちばん休まるのはどういうものかという質問があった。私は、アルコーヴではないかと答えた。これは、壁の中に等身大の凹みを作って、そこに寝そべるのである。ブリティッシュ・コロンビア大学の学生会館のラウンジには、いくつかのアルコーヴを作ってあって、そこには学生が必ずはいっていた。(中井久夫「精神病棟の設計に参与する」初出1993年『家族の深淵』所収)

家は母胎の代用品である。最初の住まい、おそらく人間がいまなお渇望し、安全でとても居心地のよかった母胎の代用品である[das Wohnhaus ein Ersatz für den Mutterleib, die erste, wahrscheinlich noch immer ersehnte Behausung, in der man sicher war und sich so wohl fühlte. ](フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第3章、1930年)