このブログを検索

2024年1月23日火曜日

実に啓蒙的な「世界経済フォーラム=シュワブ画像」

 





この世界経済フォーラム=シュワブ画像は、実にすぐれて啓蒙的だね、グローバリズムに「俗に知られている」マルクス主義とファシズムの調味料をふんだんに入れて調理するなんて。


グローバリズムは厳密にいえば、グローバル資本主義、世界資本主義だ。世界資本の自由主義と言ってもよい。


自由とは、共同体による干渉も国家による命令もうけずに、みずからの目的を追求できることである。資本主義とは、まさにその自由を経済活動において行使することにほかならない。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』2000年)


俗に知られているマルクス主義とは、レーニン主義、つまりボルシェヴィズムだ。



ところでマルクスは、議会制を、実は特殊な意志(ブルジョア階級の意志)であるものを一般意志たらしめるものだと考えました。それに対して、マルクスは「プロレタリア独裁」を主張しました。それは「プロレタリアートの解放が人類の解放である」がゆえに、プロレタリアートの特殊意志が一般的たりうるということを意味しています。


しかし、マルクスはその具体的な内容については何も語らなかったのです。しかし、そこに、それならプロレタリア階級の「真の意志」は、どのように代表されるのかという問題が出てくるはずです。その場合、晩年エンゲルスやカウツキーは、議会制をとっていました。

それに対して、レーニンは、少数の前衛としての党がそれを代表するという考えを出しました。したがって、共産党はプラトンのいうような哲学者=王ということになります。このレーニンの考え(ボルシェヴィズム)が、俗に知られているマルクス主義です。こうして、「プロレタリア独裁」は「党独裁」、さらに「スターリン独裁」ということに帰結します。


しかし、それはスターリンの誤りということではすみません。それは実質的には官僚の支配なのですから。さらに、それは、「真の意志」を誰がいかにして代表するかという問題にかんする、一つの考え方の帰結ですから。さらに、それは「民主主義的」でないとはいえないからです。


シュミットは、共産主義的な独裁形態が民主主義と反するものではないといっています。もちろん、彼はヒットラー総統の独裁は民主主義的であるというのです。


«ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的ではあるが、しかし、必ずしも反民主主義的であるわけではない» 。


実際、ヒットラーはクーデターではなく、議会的選挙を経て合法的に権力を握ったのです。そして、その政策は、基本的に官僚による統制経済です。それはワイマール体制(議会民主主義)においてなすすべもなかった失業問題を一挙に解決して、「大衆の支持」を獲得したわけです。(柄谷行人『〈戦前〉の思考』1994年)



要するに俗に知られている「マルクス主義=共産主義」も「ファシズム」も民主主義だ。


ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない。民主主義の歴史には多くの独裁制があった[Bolschewismus und Fascismus dagegen sind wie jede Diktatur zwar antiliberal, aber nicht notwendig antidemokratisch. In der Geschichte der Demokratie gibt es manche Diktaturen](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)

民主主義が独裁への決定的対立物ではまったくないのと同様、独裁は民主主義の決定的な対立物ではまったくない[Diktatur ist ebensowenig der entscheidende Gegensatz zu Demokratie wie Demokratie der zu Diktatur.](カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1926年版)



他方、グローバリズムは先に示したように資本の自由主義だ。つまり世界経済フォーラムの目指そうとしているのは究極の自由民主主義だよ。




どうして人は自由民主主義をまともに批判してこなかったんだろう?


自由主義と民主主義の対立とは、結局個人と国家あるいは共同体との対立にほかならない。(柄谷行人「歴史の終焉について」1990年『終焉をめぐって』所収)

現代の民主主義とは、自由主義と民主主義の結合、つまり自由ー民主主義である。それは相克する自由と平等の結合である。自由を指向すれば不平等になり、平等を指向すれば自由が損なわれる。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)


柄谷が上の二文で言っていることは、「自由主義/民主主義」は「個人/国家・共同体」かつ、「不平等/平等」だということである。そしてマルクスにおいて資本の自由は搾取の自由に行き着く(いわゆるベンサム主義)。これこそ世界経済フォーラムの背後にいる金融資本がやっていることだ。


さらに民主主義的平等とは、ナチの天才理論家シュミットにとって異質な者の排除を意味する。

民主主義に属しているものは、必然的に、まず第ーには同質性であり、第二にはーー必要な場合には-ー異質なものの排除または殲滅である。[…]民主主義が政治上どのような力をふるうかは、それが異質な者や平等でない者、即ち同質性を脅かす者を排除したり、隔離したりすることができることのうちに示されている。Zur Demokratie gehört also notwendig erstens Homogenität und zweitens - nötigenfalls -die Ausscheidung oder Vernichtung des Heterogenen.[…]  Die politische Kraft einer Demokratie zeigt sich darin, daß sie das Fremde und Ungleiche, die Homogenität Bedrohende zu beseitigen oder fernzuhalten weiß. (カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』1923年版)


これも世界経済フォーラムがやろうとしていることだ、反シュワブ組に対する排除・殲滅を。


ああ、なんという自由民主主義の帰結!



………………


※附記


ちなみに巷間ではほとんどまったく理解されていないマルクスの共産主義とは次の内容をもっている。

一般に流布している考えとは逆に、後期のマルクスは、コミュニズムを、「アソシエーションのアソシエーション」が資本・国家・共同体にとって代わるということに見いだしていた。彼はこう書いている、《もし連合した協同組合組織諸団体(uninted co-operative societies)が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断の無政府と周期的変動を終えさせるとすれば、諸君、それは共産主義、“可能なる”共産主義以外の何であろう》(『フランスの内乱』)。この協同組合のアソシエーションは、オーウェン以来のユートピアやアナーキストによって提唱されていたものである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


自由でアソシエートした労働への変容[freien und assoziierten Arbeit verwandelt]〔・・・〕

もし協同組合的生産 [genossenschaftliche Produktion]が欺瞞やわなにとどまるべきでないとすれば、もしそれが資本主義制度[kapitalistische System] にとってかわるべきものとすれば、もし連合した協同組合組織諸団体 [Gesamtheit der Genossenschaften] が共同のプランにもとづいて全国的生産を調整し、かくてそれを諸団体のコントロールの下におき、資本制生産の宿命である不断のアナーキー [beständigen Anarchie]と周期的変動 [periodisch wiederkehrenden Konvulsionen]を終えさせるとすれば、諸君、それはコミュニズム、可能なるコミュニズム [„unmögliche“ Kommunismus]以外の何であろう。(マルクス『フランスにおける内乱(Der Bürgerkrieg in Frankreich)』)



柄谷が『世界史の構造』以降、連発している交換様式図に代入すれば、こう置けるな。





共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。(柄谷行人『力と交換様式』2022年)


とはいえ共産主義はその名に悪いイメージが纏い付いているからな、別の名にしたほうがいいが。コモンとか。


ネグリは最近ようやくマルチチュードの浅薄さに気づいて次のように言っているけどね。



マルチチュードは、主権の形成化 forming the sovereign power へと解消する「ひとつの公民 one people」に変容するべきである。(…)multitudo 概念を強調して使ったスピノザは、政治秩序が形成された時に、マルチチュードの自然な力が場所を得て存続することを強調した。実際にスピノザは、マルチチュードmultitudoとコモンcomunis 概念を推敲するとき、政治と民主主義の全論点を包含した。(…)スピノザの教えにおいて、単独性からコモンsingularity to the commonへの移行において決定的なことは、想像力・愛・主体性である。新しく発明された制度newly invented institutionsへと自らを移行させる単独性と主体性は、コモンティスモ commontismoを要約する一つの方法である。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)

なぜ我々はこれをコミュニズムと呼ばないのか。おそらくコミュニズムという語は、最近の歴史において、あまりにもひどく誤用されてしまったからだ。(…だが)私は疑いを持ったことがない、いつの日か、我々はコモンの政治的プロジェクトをふたたびコミュニズムと呼ぶだろうことを[I have no doubt that one day we will call the political project of the common ‘communism' again]。だがそう呼ぶかどうかは人々しだいだ。我々しだいではない。(The Salt of the Earth On Commonism: An Interview with Antonio Negri – August 18, 2018)