「芸術家に退行が見られないなら「凡庸な」芸術家、つまり芸能人に過ぎない」と記したのは言い過ぎだったかね、ま、ちょっとした挑発だよ。
とはいえ、例えば以下ご参考に。
過去はけっして死なない。それは過ぎ去ってさえいない[The past is never dead. It's not even past ](フォークナー『尼僧への鎮魂歌』1951年) |
海の神秘は浜で忘れられ、 深みの暗さは泡の中で忘れられる。 だが、思い出の珊瑚はにわかに紫の火花を放つ。 ーーヨルゴス・セフェリス(中井久夫「発達的記憶論」エピグラフ) |
…………… ◼️プルースト:過去の復活 |
過去の復活[résurrections du passé] は、その状態が持続している短いあいだは、あまりにも全的で、並木に沿った線路とあげ潮とかをながめるわれわれの目は、われわれがいる間近の部屋を見る余裕をなくさせられるばかりか、われわれの鼻孔は、はるかに遠い昔の場所の空気を吸うことを強制され [Elles forcent nos narines à respirer l'air de lieux pourtant si lointains]、われわれの意志は、そうした遠い場所がさがしだす種々の計画の選定にあたらせられ、われわれの全身は、そうした場所にとりかこまれていると信じさせられるか、そうでなければすくなくとも、そうした場所と現在の場所とのあいだで足をすくわれ、ねむりにはいる瞬間に名状しがたい視像をまえにしたときどき感じる不安定にも似たもののなかで、昏倒させられる。(プルースト「見出された時」) |
◼️フロイト:過去の復活=忘れられたものの回帰=抑圧されたものの回帰 |
過去の復活、長い間隔をおいての忘れられたものの回帰[Wiederkehren des Vergessenen nach langen Intervallen](フロイト『モーセと一神教』3.1.4 Anwendung、1939年) |
忘れられたものは消去されず「抑圧された」だけである[Das Vergessene ist nicht ausgelöscht, sondern nur »verdrängt«](フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年) |
◼️抑圧されたものの回帰=固着点への退行 |
抑圧の失敗、侵入、抑圧されたものの回帰 [des Mißlingens der Verdrängung, des Durchbruchs, der Wiederkehr des Verdrängten anzuführen. ]。 この侵入は固着点から始まる。そしてリビドー的展開の固着点への退行を意味する[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her und hat eine Regression der Libidoentwicklung bis zu dieser Stelle( Stelle der Fixierung ) zum Inhalte. ](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー )第3章、1911年) |
◼️過去の固着への退行 |
固着と退行は互いに独立していないと考えるのが妥当である。発達の過程での固着が強ければ強いほど、その機能はその固着へ退行することで外部の困難を回避しやすくなる[Es liegt uns nahe anzunehmen, daß Fixierung und Regression nicht unabhängig voneinander sind. Je stärker die Fixierungen auf dem Entwicklungsweg, desto eher wird die Funktion den äußeren Schwierigkeiten durch Regression bis zu jenen Fixierungen ausweichen](フロイト『精神分析入門」第22講、1917年) |
現実では満たされることのないリビドーの鬱積は、過去の固着への退行の助けを借りて、抑圧された無意識を通して捌け口を見出す「Eine nicht real zu befriedigende Libidostauung schafft sich mit Hilfe der Regression zu alten Fixierungen Abfluß durch das verdrängte Unbewußte.] (フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年) |
前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年) |
……………
◼️ラカン:固着点への回帰 |
対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ](Lacan, S10, 26 Juin 1963) |
対象aは現実界の審級にある[(a) est de l'ordre du réel.] (Lacan, S13, 05 Janvier 1966) |
現実界は「常に同じ場処に回帰するもの」として現れる[le réel est apparu comme « ce qui revient toujours à la même place »] (Lacan, S16, 05 Mars 1969 ) |
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フロイトが固着点と呼んだもの、この固着点の意味は、常に同じ場処に回帰することである。この理由で固着点に現実界の資格を与える[ce qu'il appelle un point de fixation. …Ce que veut dire point de fixation, c'est … qui revient toujours à la même place, et c'est à ce titre que nous le qualifions de réel]. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[…fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
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◼️リオタール:フロイトとプルーストの仮説ーー失われた時を求めて |
フロイト(とプルースト)の仮説…精神分析、つまり失われた時を求める探求は、文学のように、際限のないものになるほかはない。それも、歴史という名に値する歴史として、つまり歴史主義ではなくアムネーシスであるような歴史としてなのである。それは、忘却というものが記憶の欠落ではなく、つねに「現前している」が決して今-ここにはないあの記憶され得ぬものであり、習慣的な意識の時間に合っては、つねに早すぎると遅すぎるのあいだで引き裂かれるということを忘れはしない。心的装置にもたらされはするものの、感じずにいる第一撃の早すぎる時機と、何かが感じ取られ、耐えがたい思いのする第二撃の遅すぎる時機のあいだで、そこにあるのは、戦わずして傷つけられた魂ということなのである。 L'hypothèse freudienne (et proustienne)… La psychanalyse, la recherche du temps perdu, ne peut être, comme la littérature, qu'interminable. Et comme la véritable histoire, celle qui n'est pas historicisme, mais anamnèse. Qui n'oublie pas que l'oubli n'est pas une défaillance de la mémoire, mais l'immémorial toujours ‘présent', jamais ici-maintenant, toujours écartelé dans le temps de conscience, chronique, entre un trop tôt et un trop tard. – le trop tôt d'un premier coup porté à l'appareil qu'il ne ressent pas. , et le trop tard d'un deuxième coup où se fait sentir quelque chose d'intolérable. Une âme a frappé sans porter un coup. (ジャン・リオタール『ハイデガーと「ユダヤ人」』本間邦雄訳 Jean-François Lyotard, Heidegger et les Juifs, 1988) |
※抑圧=不快=不安=喪失 |
抑圧の動因と目的は不快の回避以外の何ものでもない[daß Motiv und Absicht der Verdrängung nichts anderes als die Vermeidung von Unlust war. ](フロイト『抑圧』1915年) |
不安は特殊な不快状態である[Die Angst ist also ein besonderer Unlustzustand](フロイト『制止、症状、不安』第8章、1926年) |
自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…) die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年) |
ーーすなわち、抑圧されたものの回帰は喪われたものの回帰であり、失われた時のレミニサンスと基本的には等価だ。 |
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◼️黒田夏子と吉行淳之介 |
……その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある. またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.(黒田夏子「abさんご」2013年) |
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長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくことがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。
立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』1964年) |
◼️中原中也と谷崎潤一郎 |
三歳の記憶 中原中也 縁側に陽があたつてて、 樹脂が五彩に眠る時、 柿の木いつぽんある中庭は、 土は枇杷いろ 蝿が唸く。 |
要は下駄を脱ぎ捨てて足袋の底に冷めたい廊下のすべすべした板を蹈んだとき、一瞬間遠い昔の母のおもかげが心をかすめた。蔵前の家から俥の上を母の膝に乗せられて木挽町へ行った五つか六つの頃、茶屋から母に手を曳かれて福草履を突っかけながら、歌舞伎座の廊下へ上るときがちょうどこんな工合であった。(谷崎潤一郎『蓼食う虫』) |
………………
まだまだ引き出しの奥に在庫はふんだんにあるが、ここではこれくらいにしとくよ。
少なくともプルーストはこう考えたんだよ、 |
私は作品の最後の巻ーーまだ刊行されていないーーで、無意識の再起の上に私の全芸術論をすえる[je trouve à ces ressouvenirs inconscients sur lesquels j'asseois, dans le dernier volume non encore publié de mon œuvre, toute ma théorie de l'art, ](Marcel Proust, « À propos du “ style ” de Flaubert » , 1er janvier 1920) |
この「スワン家のほう」はある意味で極めてリアルな書だが、 無意志的記憶を模倣するために、突如のレミニサンスによって支えられている。この書の一部は、私が忘れてしまった私の生の一部であり、マドレーヌのかけらを食べているとき、突然に再発見したものである。C'est un livre extrêmement réel mais supporté en quelque sorte, pour imiter la mémoire involontaire …par des réminiscences brusques une partie du livre est une partie de ma vie que j'avais oubliée, et que tout d'un coup je retrouve en mangeant un peu de madeleine (Comment parut Du côté de chez Swann. Lettre de M.Proust à René Blum de février 1913) |
で、シャトーブリアンや、ネルヴァル、ボードレールを引用しつつ、プルーストはこう記してんだ。 |
マドレーヌの感覚と同種のある感覚は、『墓のかなたの回想録』もっとも美しい部分につながるのではないだろうか、「きのうの夕方、私は一人で散歩していた… とある白樺のもっとも高い枝にとまった一羽のつぐみのさえずりに私は内省からひきだされた。たちまちその魔法の音は私の目に父の領地を出現させた、私は自分が証人になってきたばかりの数々の大異変を忘れた、そしてただちに過去のなかにはこびさられた私は、あのようにしばしばつぐみが鳴くのをきいたあの田舎をふたたび目にした。」N'est-ce pas à mes sensations du genre de celle de la madeleine qu'est suspendue la plus belle partie des Mémoires d'Outre-Tombe : « Hier au soir je me promenais seul... je fus tiré de mes réflexions par le gazouillement d'une grive perchée sur la plus haute branche d'un bouleau. À l'instant, ce son magique fit reparaître à mes yeux le domaine paternel ; j'oubliai les catastrophes dont je venais d'être le témoin et, transporté subitement dans le passé, je revis ces campagnes où j'entendis si souvent siffler la grive. » |
またこの『回想録』の二つか三つのもっとも美しい章句の一つは、つぎのものではなかろうか、「ヘリオトロープの上品な、心地よい匂が、花ざかりのまめ畑の小さな一画から立ちのぼってきた。その匂は祖国の微風によってではなくて、ニューファンドランドの野生の風にはこばれてきたもので、祖国から追いやられてきた植物とは関係もなく無意識的記憶や官能との共感もなかった。美女の呼吸をはずませることもなく、その乳房にふれて清められることもなく、そのあゆみのあとにひろがることもないこのかおり、しかし黎明を一変し、文化を一変し、世界を一変するこのかおりのなかには、悔恨と、不在と、青春との、あらゆる憂愁があった。」Et une des deux ou trois plus belles phrases de ces Mémoires n'est-elle pas celle-ci : « Une odeur fine et suave d'héliotrope s'exhalait d'un petit carré de fèves en fleurs ; elle ne nous était point apportée par une brise de la patrie, mais par un vent sauvage de Terre-Neuve, sans relation avec la plante exilée, sans sympathie de réminiscence et de volupté. Dans ce parfum, non respiré de la beauté, non épuré dans son sein, non répandu sur ses traces, dans ce parfum chargé d'aurore, de culture et de monde, il y avait toutes les mélancolies des regrets, de l'absence et de la jeunesse. » |
フランス文学の傑作の一つ、ジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィ』は、『墓のかなたの回想録』のコンプールに関する章とまったくおなじように、マドレーヌの味や「つぐみのさえずり」と同種の感覚をもっている。Un des chefs-d'œuvre de la littérature française, Sylvie, de Gérard de Nerval, a, tout comme le livre des Mémoires d'Outre-Tombe relatif à Combourg, une sensation du même genre que le goût de la madeleine et « le gazouillement de la grive ». |
最後にボードレールにあっては、そんな無意識的記憶(レミニサンスréminiscences)はもっと多数にのぼり、あきらかにこれは偶然ではなく、したがって、私の意見では、決定的なものである。ほかならぬこの詩人こそ、さらに多くの選択と安逸とをもって、意志的に追求することになるのだ、ーー女の、たとえば髪の毛、乳房の匂のなかに、「ひろびろとしたまるい空のコバルト・ブルー」や「旗とマストとに満ちた港」を彼に喚起するであろう霊感の類推を。Chez Baudelaire enfin, ces réminiscences, plus nombreuses encore, sont évidemment moins fortuites et par conséquent, à mon avis, décisives. C'est le poète lui-même qui, avec plus de choix et de paresse, recherche volontairement, dans l'odeur d'une femme par exemple, de sa chevelure et de son sein, les analogies inspiratrices qui lui évoqueront « l'azur du ciel immense et rond » et « un port rempli de voiles et de mâts ». |
私は、根底にそのように転置された感覚が見出されるボードレールの詩篇を一心に思いだしながら、やっと自分をそれとおなじように高貴な系譜のなかに置くまでになり、そのことで、いまはためらわずに着手しようとくわだてている作品が、それにささげようとしている自分の努力に値している、という確信に達してきた。J'allais chercher à me rappeler les pièces de Baudelaire à la base desquelles se trouve ainsi une sensation transposée, pour achever de me replacer dans une filiation aussi noble et me donner par là l'assurance que l'œuvre que je n'avais plus aucune hésitation à entreprendre méritait l'effort (プルースト「見出された時」p406-p408、井上究一郎訳、一部変更) |
これらはすべて、フロイト曰くの《過去の固着への退行[Regression zu alten Fixierungen]》の話であるのは紛いようがないね。