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2024年1月6日土曜日

この今の悪魔を再検討するために


これは読み逃してたな、

悪魔とは抑圧された無意識の欲動的生の擬人化にほかならない[der Teufel ist doch gewiß nichts anderes als die Personifikation des verdrängten unbewußten Trieblebens ](フロイト『性格と肛門性愛』1908)


で、抑圧は外傷神経症だよ

我々は、あらゆる神経症の根に横たわっている抑圧を、トラウマに対する反応、基本的な外傷神経症と呼ぶことができる[man kann doch die Verdrängung, die jeder Neurose zu Grunde liegt, mit Fug und Recht als Reaktion auf ein Trauma, als elementare traumatische Neurose bezeichnen. ](フロイト「『戦争神経症の精神分析のために』への序言」 Einleitung zu Zur Psychoanalyse der Kriegsneurosen, 1919年)


で、外傷神経症は固着の反復だ。

外傷神経症は、外傷的出来事の瞬間への固着がその根に横たわっていることを明瞭に示している。これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況を反復する。Die traumatischen Neurosen geben deutliche Anzeichen dafür, daß ihnen eine Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles zugrunde liegt. In ihren Träumen wiederholen diese Kranken regelmäßig die traumatische Situation; (フロイト『精神分析入門』第18講「トラウマへの固着、無意識への固着 Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte」1917年)


つまり悪魔=抑圧された欲動=外傷神経症=固着の反復となる。


もともとフロイトにとって第一次抑圧(原抑圧)は欲動の固着だ。

抑圧の第一段階は、あらゆる抑圧の先駆けでありその条件をなしている固着である[das »Verdrängung«…Die erste Phase besteht in der Fixierung, dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]〔・・・〕

この欲動の固着は、以後に継起する病いの基盤を構成する[Fixierungen der Triebe die Disposition für die spätere Erkrankung liege](フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年)

われわれには原抑圧[Urverdrängung]、つまり、抑圧の第一段階を仮定する根拠がある。それは欲動の心的(表象-)代理が意識的なものへの受け入れを拒まれるという事実から成り、これにより固着[Fixerung]がもたらされる。問題となっている欲動の代理はそれ以後不変のまま存続し、欲動はそれに拘束される。

Wir haben also Grund, eine Urverdrängung anzunehmen, eine erste Phase der Verdrängung, die darin besteht, daß der psychischen (Vorstellungs-)Repräsentanz des Triebes die Übernahme ins Bewußte versagt wird. Mit dieser ist eine Fixierung gegeben; die betreffende Repräsentanz bleibt von da an unveränderlich bestehen und der Trieb an sie gebunden. (フロイト『抑圧』1915年)


つまり、悪魔は欲動のトラウマ的固着の反復だ、とくに幼児期のさ、

幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)

トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]〔・・・〕ここで外傷神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[Die traumatische Neurose zeigt uns da einen extremen Fall, aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen](フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)



この幼児期の外傷神経症ーートラウマ的固着の反復ーーが、最近ようやく結論が出たラカンの現実界の症状サントームだ。


ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。ce réel de Lacan (…) , c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique.  (J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)

サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である[Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)

われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である。[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06)



つくづく感心するよ、何度も掲げているが、古井由吉の幼少の砌の髑髏の固着の話には。日本のへっぽこフロイトラカン学者なんか読むよりずっとタメになるぜ、精神分析的に。


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。


小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。


小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)



中井久夫の次の悪魔の話もいいがね、

ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。(中井久夫「トラウマとその治療経験」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫が愛したトインビーの次の文もとってもいいよ、この今の悪魔を再検討するために。


人類の歴史の陰湿な皮肉の中で、これ以上に人間性の邪悪さと救いがたさを明らかにしたものはないだろう。つまり、ユダヤ人は恐るべき迫害の憂き目に遭った直後に、ナチスから塗炭の苦しみを受けた教訓を生かそうとはしないで、自分たちがユダヤ人として被害者になったのと同じような犯罪を、加害者として再び犯さないようにするのではなくて、今度は自ら新たな民族主義者になって、自分たちの父祖が住んでいた郷土に今アラブ人がいるという理由から、自分よりも弱い民族を犠牲にして迫害したことである。(アーノルド・トインビー『歴史の研究』ARNOLD J. Toynbee, A STUDY OF HISTORY, ABRIDGEMENT OF VOLUMES Ⅶ―Ⅹp177.



とはいえ結局ここに行き着くんだよな


これからきみにぼくの人生で最も悲しかった発見を話そう。それは、迫害された者が迫害する者よりましだとはかぎらない、ということだ。ぼくには彼らの役割が反対になることだって、充分考えられる。(クンデラ『別れのワルツ』)

過去の虐待の犠牲者は、未来の加害者になる恐れがあるとは今では公然の秘密である。(When psychoanalysis meets Law and Evil: Jochem Willemsen and Paul Verhaeghe, 2010)



とすれば悪魔の再検討のしようがないね。