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2024年2月19日月曜日

人類というものは、おしなべて「愚かなもの」である

 

ちくま連載の蓮實重彦『些事へのこだわり』の直近コラム「久方ぶりに烈火のごとく怒ったのだが、その憤怒が快いあれこれのことを思いださせてくれたので、怒ることも無駄ではないと思い知った最近の体験について」(2024年1月18日)の冒頭は次の文で始まる。


なかには例外的に聡明な個体も混じってはいるが、これからこの文章を書こうとしているわたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」であるという経験則を強く意識してからかなりの時間が経っているので、その「愚かさ」にあえて苛立つこともなく晩期高齢者としての生活をおしなべて平穏に過ごしている。


蚊居肢子は前期高齢者になってまだ2年しか経っていないので、この蓮實の心境にはほど遠いが、とはいえいささか高血圧気味であり、烈火のごとく怒ることは可能な限り避けたいと念じている。しかし、ーーである。ワクチン生物兵器、宇露紛争、ガザジェノサイドと引き続いたこの3年あまりのあいだ、5年ほど前その愚かしさに呆れ返るようになって降りたツイッター社交界、いまではX社交界というようになったらしいが、この装置の言説を覗く機会がやむなく増え、抑えきれない憤怒に襲われることがままある。健康によろしくないが、他方で巷間のデマゴーグの背後にある事態を知りたいという知の欲動に駆り立てられ如何ともし難い。


とすれば血圧がこれ以上あがらないようにするためには、《わたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」である》という認識をしっかり受け入れて世の言説に対する最低限の必要性がある。


ましてや愚かさがひどく進歩した21世紀である。



フローベールの愚かさに対する見方のなかでもっともショッキングでもあるのは、愚かさは、科学、技術、進歩、近代性を前にしても消え去ることはないということであり、それどころか、進歩とともに、愚かさも進歩する! ということです。

Le plus scandaleux dans la vision de la bêtise chez Flaubert, c'est ceci : La bêtise ne cède pas à la science, à la technique, à la modernité, au progrès ; au contraire, elle progresse en même temps que le progrès !


フローベールは、自分のまわりの人々が知ったかぶりを気取るために口にするさまざまの紋切り型の常套語を、底意地の悪い情熱を傾けて集めています。それをもとに、彼はあの有名な『紋切型辞典』を作ったのでした。この辞典の表題を使って、次のようにいっておきましょう。すなわち、現代の愚かさは無知を意味するのではなく、紋切型の無思想を意味するのだと。フローベールの発見は、世界の未来にとってはマルクスやフロイトの革命的な思想よりも重要です。といいますのも、階級闘争のない未来、あるいは精神分析のない未来を想像することはできるとしても、さまざまの紋切型のとどめがたい増大ぬきに未来を想像することはできないからです。これらの紋切型はコンピューターに入力され、マスメディアに流布されて、やがてひとつの力となる危険がありますし、この力によってあらゆる独創的で個人的な思想が粉砕され、かくて近代ヨーロッパの文化の本質そのものが息の根をとめられてしまうことになるでしょう。

Avec une passion méchante, Flaubert collectionnait les formules stéréotypées que les gens autour de lui prononçaient pour paraître intelligents et au courant. Il en a composé un célèbre 'Dictionnaire des idées reçues'. Servons-nous de ce titre pour dire : la bêtise moderne signifie non pas l'ignorance mais la non-pensée des idées reçues. La découverte flaubertienne est pour l'avenir du monde plus importante que les idées les plus bouleversantes de Marx ou de Freud. Car on peut imaginer l'avenir sans la lutte des classes et sans la psychanalyse, mais pas sans la montée irrésistible des idées reçues qui, inscrites dans les ordinateurs, propagées par les mass média, risquent de devenir bientôt une force qui écrasera toute pensée originale et individuelle et étouffera ainsi l'essence même de la culture euro-péenne des temps modernes.

(ミラン・クンデラ「エルサレム講演」1985年『小説の精神』所収)




とりわけツイッター社交界はこの「紋切型の無思想」が跳梁跋扈する世界であるのは紛いようがない。基本的には短文形式の紋切言説がリツートによって拡散されるわけだが、ヒトは大量にリツートされた見解が信頼の置けるものと誤認する傾向があるのは甚だしく醜悪である。


大量に伝染された見解こそ真っ先に疑わねばならないのに。


浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(小林秀雄「林房雄」)


さらに「専門家」の見解なら信頼の置けるものだといまだ思い込み勝ちのようだが、それが大間違いなのは2011年に学んだのではなかったか。


鈴木健@kensuzuki 

要は専門家のもっている専門てほんとに狭くって、世界に数人~数十人しか分かる人がいない。それでも業界外に位置づけを説明するために自分が数千人から数十万人のコミュニティに属しているように説明する。素人から期待される質問に答えようとするととたんに擬似専門家になる。(2011年3月16日)


この3年あまりのあいだにおいても医学者やら国際政治学者やらの言説から学んでいるのではなかったのか、連中が《菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」》(小林秀雄「菊池寛」)であることを。


こういった話自体いままで何度も繰り返してきたことだが、再度強調しておけば、《わたくし自身もその一員であるところの人類というものは、国籍、性別、年齢の違いにもかかわらず、おしなべて「愚かなもの」である》であり、こう書いているわたくし自身も愚かであることをしっかり受け入れつつ、世の中で一番始末に悪い馬鹿にならないよう自ら細心の注意を払う必要があるのはいうまでもない。



最も注意すべきは、X社交界装置は、《一日でわかると思いこむ人々》で溢れ返っていることであり、かつまたそれを促す装置であることである。


人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』)


さらにどんな見解でも、ある枠組みに囚われたものであり、普遍的なものでは決してないことを十全に認知せねばならない。

もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。(柄谷行人『隠喩としての建築』1983年)


人はみなメガネをかけてものを見ているのである。


めがねというのは、抽象的なことばを使えば、概念装置あるいは価値尺度であります。ものを認識し評価するときの知的道具であります。われわれは直接に周囲の世界を認識することはできません。われわれが直接感覚的に見る事物というものはきわめて限られており、われわれの認識の大部分は、自分では意識しないでも、必ずなんらかの既成の価値尺度なり概念装置なりのプリズムを通してものを見るわけであります。そうして、これまでのできあいのめがねではいまの世界の新しい情勢を認識できないぞということ、これが象山がいちばん力説したところであります。〔・・・〕

われわれがものを見るめがね、認識や評価の道具というものは、けっしてわれわれがほしいままに選択したものではありません。それは、われわれが養われてきたところの文化、われわれが育ってきた伝統、受けてきた教育、世の中の長い間の習慣、そういうものののなかで自然にできてきたわけです。ただ長い間それを使ってものを見ていますから、ちょうど長くめがねをかけている人が、ものを見ている際に自分のめがねを必ずしも意識していないように、そういう認識用具というものを意識しなくなる。自分はじかに現実を見ているつもりですから、それ以外のめがねを使うと、ものの姿がまたちがって見えるかもしれない、ということが意識にのぼらない。…そのために新しい「事件」は見えても、そこに含まれた新しい「問題」や「意味」を見ることが困難になるわけであります。(丸山真男集⑨「幕末における視座の変革」1965.5)


次の比較的初期の蓮實のいささか衒学的な文も彼流のメガネの言い方にほかならない。

風景…それは、 視線の対象であるかにみえて、実は視線を対象として分節化する装置にほかならない。…つまりここで問題となる風景とは、 視界に浮上する現実の光景の構図を一つの比喩にしたてあげもするあの不可視の、 だが透明とはほど遠い濁った壁の表層にまといついた汚点や斑点の戯れそのものにほかなら(ない)⋯⋯


解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がたがいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦「風景をこえて」『表層批判宣言』1979年)



「解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかない」ーー例えばわたくしは反米ネオコンという視線を持っている。だがこの視線は、米ネオコンという風景、より具体的には米一極覇権という世界資本主義の風景によって解釈をすでに蒙った視線ではないのかという疑いを持たねばならない。


この論理は多くの事象に使える。例えば反天皇主義者を例に出そう。ほとんどの場合、彼らの眼差しは、天皇制という風景に既に解釈を蒙っている。天皇制が日本の文化の典型とすれば、これはやむ得ないことでもあるが、天皇制廃止論の論理自体ーーいや彼らの御託のような「非論理」というべきかーーが、日本文化としての天皇制に汚染されている。結局、天皇制とは柄谷行人が言ったように日本人の無意識なのである。


これはより大きく一般化して言えば、ニーチェが次のように言ったことでもある。


私たちが意識するすべてのものは、徹頭徹尾、まず調整され、単純化され、図式化され、解釈されている[alles, was uns bewußt wird, ist durch und durch erst zurechtgemacht, vereinfacht, schematisirt, ausgelegt](ニーチェ『力への意志』11[113] (358) )


の『隠喩としての建築』の柄谷の《われわれの問いが、我々自身の“説明”できない所与の“環境”のなかで与えられている》とは、このニーチェの変奏として読むことができる。