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2024年2月16日金曜日

貨幣は言語だよ、で言語はフェティッシュだ


貨幣は言語だよ、

経済学と言語学の長い歴史において、この二教科を結合する問題が繰り返し生起した。 啓蒙主義時代の経済学者たちが言語学的問題に手を染めたことが想起されよう。たとえば、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーは百科全書のために語源の研究を扱い、アダム・スミスは言語の起源を論じている。 循環、交換、価値、生産と投資、生産者と消費者などの事項についてソシュールの教理へのG・タルドの影響は周知である。"動的共時態"すなわち体系内部の矛盾と、その不断の動きなどのような共通の主題が、両分野で相似の発展を遂げた。 基本的な経済学の概念が、記号学的解釈の試みに繰り返して付せられた。〔・・・〕現在、タルコット・パースンズは貨幣を"非常に高度に特殊化した言語"、経済上の取引を"或る種の会話"、貨幣の流通を"メッセージの送達"、そして貨幣体系を"文法的・統辞的コード"として組織的に扱っている。言語学において開発されたコードとメッセージの理論を彼は公然と経済的交換に適用している。(ヤーコブソン 『一般言語学』川本茂雄他訳)


ーー「経済学と言語学」とあるが、どちらも交換学=コミュニケーション学だ。


広い意味で、交換(コミュニケーション)でない行為は存在しない。〔・・・〕その意味では、すべての人間の行為を「経済的なもの」として考えることができる。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第2章、2001年)


つまり経済学とは人間学だね、

主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)


で、言語はフェティッシュだ。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)


貨幣が単なる紙切れや電子情報に過ぎないのに価値あるもの(交換価値)として扱うのと同じように、言語も無だけれどコミュニケーション価値として扱う。


マルクスの貨幣のフェティシズムとは事実上、この言語のフェティシズムのことだ。


貨幣のフェティシズム……マルクスはそれを商品のフェティシズムとして見た。それは、すでに古典経済学者が重商主義者の抱いた貨幣のフェティシズムを批判していたからであり、さらに、各商品に価値が内在するという古典経済学の見方にこそ、貨幣のフェティシズムが暗黙に生き延びていたからである。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部 第2章「綜合の危機」)


価値は内在しないのに内在するものとして扱う。つまり無を覆う見せかけ。これがフェティシズムの定義であり、シニフィアンの定義、つまり言語表象の定義だ。先のクリスティヴァはラカンのセミネールの熱心の出席者だったから、1980年という早い段階でああ洞察できている。


ラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールはちょっと遅いが許さないとな、鮮明化してくれたから。


我々は、見せかけを無をヴェールする機能と呼ぶ[Nous appelons semblant ce qui a fonction de voiler le rien](J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)

フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993)


そしてーー、

見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)

人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement  a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste.  (Lacan, S4, 21 Novembre 1956)

マルクスのいう商品のフェティシズムとは、簡単にいえば、“自然形態”、つまり対象物が“価値形態”をはらんでいるという事態にほかならない。だが、これはあらゆる記号についてあてはまる。(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』1978年)


ーーと簡単に記したが、ふつうはこれではなんのことやらチンプンカンプンだろうよ。でも厳密に記すと、この10倍ぐらいは書かないとならないし、標準的な人にはいっそうわからなくなる、だろ? そもそも誰も読まないよ、そんなもの。さらに言えば、日本のマルクス学者自体、マルクスのフェティシズムについていまだナーンニモわかっていない・・・マルクスにもフロイトラカンにもーーさらにソシュールや先のヤコブソンにもーー無知な人は諦めたほうがいいよ。


ちなみにフロイトのフェティッシュの定義はこうだ。


フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) 」(フロイト『フェティシズム』1927年)


女性のファルスってなんだい、ーーもちろん無だろ?


あるいはこうもあるな、《足は、不当にも欠けている女性のペニスを代替する[Der Fuß ersetzt den schwer vermißten Penis des Weibes.] 》(フロイト『性理論三篇』1905年)

したがって、女はフェティッシュの偉大な自由をもっているーー、


女は、見せかけることに、とても偉大な自由をもっている![la femme a une très grande liberté à l'endroit du semblant ! ](Lacan、S18, 20 Janvier 1971)







貨幣の謎、言語の謎を把握するにはトリュフォーから始めるべきかもよ




神の謎だって、このジャン=ルイ・トランティニャンの眼差しをもってないとわかりっこないよ、


ヴェールは無から何ものかを創造する[le voile crée quelque chose ex nihilo]。ヴェールは神である[Le voile est un Dieu]。(J.-A. Miller, PRISONS DE LA JOUISSANCE 1994年)

問題となっている女なるものは神の別の名である[La femme dont il s'agit est un autre nom de Dieu](Lacan, S23, 18 Novembre 1975)


ーーというわけで、次のマルクス=シェイクスピアの貨幣は神、貨幣は娼婦に帰結しないかい?


シェイクスピアは貨幣についてとくに二つの属性をうきぼりにしている。


(1) 貨幣は目に見える神であり、一切の人間的なまたは自然的な諸属性をその反対のものへと変ずるものであり、諸事物の全般的な倒錯と転倒とである。それはできないことごとを兄弟のように親しくする。

(2) 貨幣は一般的な娼婦であり、人間と諸国民との一般的な取りもち役である。


Shakespeare hebt an dem Geld besonders 2 Eigenschaften heraus:


1. Es ist die sichtbare Gottheit, die Verwandlung aller menschlichen und natürlichen Eigenschaften in ihr Gegenteil, die allgemeine Verwechslung und Verkehrung der Dinge; es verbrüdert Unmöglichkeiten;

2. Es ist die allgemeine Hure, der allgemeine Kuppler der Menschen und Völker.

(マルクス『経済学・哲学草稿』Karl Marx, Ökonomisch-philosophische Manuskripte, 1844年)


貨幣はここまで記してきたことをひとくちで言えば、貨幣はフェティッシュとなる。これがマルクスの貨幣フェティッシュ[Geldfetischs]だ。


究極的には金融資本における資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]だが。



貨幣-貨幣‘ [G - G']・・・この定式自体、貨幣は貨幣として費やされるのではなく、単に前に進む、つまり資本の貨幣形態貨幣資本に過ぎないという事実を表現している。この定式はさらに、運動を規定する自己目的が使用価値でなく、交換価値であることを表現している。 価値の貨幣姿態が価値の独立の手でつかめる現象形態であるからこそ、現実の貨幣を出発点とし終結点とする流通形態 G ... G' は、金儲けを、資本主義的生産の推進的動機を、最もはっきりと表現しているのである。生産過程は金儲けのための不可避の中間項として、必要悪としてあらわれるにすぎないのだ。 〔だから資本主義的生産様式のもとにあるすべての国民は、生産過程の媒介なしで金儲けをしようとする妄想に、周期的におそわれるのだ。〕

G - G' (…) Die Formel selbst drückt aus, daß das Geld hier nicht als Geld verausgabt, sondern nur vorgeschossen wird, also nur Geldform des Kapitals, Geldkapital ist. Sie drückt ferner aus, daß der Tauschwert, nicht der Gebrauchswert, der bestimmende Selbstzweck der Bewegung ist. Eben weil die Geldgestalt des Werts seine selbständige, handgreifliche Erscheinungsform ist, drückt die Zirkulationsform G ... G', deren Ausgangspunkt und Schlußpunkt wirkliches Geld, das Geldmachen, das treibende Motiv der kapitalistischen Produktion, am handgreiflichsten aus. Der Produktionsprozeß erscheint nur als unvermeidliches Mittelglied, als notwendiges Übel zum Behuf des Geldmachens. (Alle Nationen kapitalistischer Produktionsweise werden daher periodisch von einem Schwindel ergriffen, worin sie ohne Vermittlung des Produktionsprozesses das Geldmachen vollziehen wollen.)

(マルクス『資本論』第二巻第一篇第一章第四節)


要するに、G - G'とは資本フェティッシュだ。

利子生み資本では、自動的フェティッシュ[automatische Fetisch]、自己増殖する価値 、貨幣を生む貨幣が完成されている。

Im zinstragenden Kapital ist daher dieser automatische Fetisch rein herausgearbeitet, der sich selbst verwertende Wert, Geld heckendes Geld〔・・・〕


ここでは資本のフェティッシュな姿態[Fetischgestalt] と資本フェティッシュ [Kapitalfetisch]の表象が完成している。我々が G - G´ で持つのは、資本の中身なき形態 、生産諸関係の至高の倒錯と物件化、すなわち、利子生み姿態・再生産過程に先立つ資本の単純な姿態である。それは、貨幣または商品が再生産と独立して、それ自身の価値を増殖する力能ーー最もまばゆい形態での資本の神秘化である。

Hier ist die Fetischgestalt des Kapitals und die Vorstellung vom Kapitalfetisch fertig. In G - G´ haben wir die begriffslose Form des Kapitals, die Verkehrung und Versachlichung der Produktionsverhältnisse in der höchsten Potenz: zinstragende Gestalt, die einfache Gestalt des Kapitals, worin es seinem eignen Reproduktionsprozeß vorausgesetzt ist; Fähigkeit des Geldes, resp. der Ware, ihren eignen Wert zu verwerten, unabhängig von der Reproduktion - die Kapitalmystifikation in der grellsten Form.

(マルクス『資本論』第三巻第二十四節)


言語だってG - G'という形で自己増殖するよ、神なる女もね。