何回か掲げているフロイトの同情(共感)は同一化によって生じるという文がある。
同情は同一化によって生まれる[das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung](フロイト『集団心理学と自我の分析』第7章「同一化」1921年) |
つまり同一化しなかったら同情あるいは共感しないということである。 ところで実はーーより厳密にはーー、フロイト・ラカンには三種類の同一化がある。 まず理想自我との同一化がある。 |
理想自我は自己愛に適用される[Idealich gilt nun die Selbstliebe](フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年) |
理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である[Le moi-Idéal [ i'(a) ] est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué par la série des identifications ](Lacan, S10, 23 Janvier 1963) |
理想自我との同一化は想像界的的同一化である[l'identification du moi idéal, c'est-à-dire l'identification comme imaginaire]. (J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 17 DECEMBRE 1986) |
次に自我理想との同一化。 |
自我理想は指導者のなかに具現化された集団の理想と交換される[Ichideal…es gegen das im Führer verkörperte Massenideal vertauscht.] (フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年) |
要するに自我理想は象徴界で終わる[l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique](Lacan, S24, 08 Février 1977) |
ラカンの象徴界的同一化のマテーム I(A)は、フロイトの『集団心理学』からの自我理想である[le mathème de l'identification symbolique de Lacan, I(A) …l'idéal du moi …à partir de la Massenpsychologie](J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96) |
理想自我との同一化は投射、自我理想との同一化は取り入れである。 |
投射は想像界の機能であり、取り入れは象徴界に関係する機能である[La projection est fonction de l'imaginaire, tandis que l'introjection est en relation au symbolique.](J.-A. MILLER, Extimité II - 20 novembre 1985) |
だが超自我への取り入れもある。 |
同一化による超自我への取り入れ[Introjektion ins Über-Ich… durch Identifizierung] (フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第7章、1930年) |
超自我は現実界のトラウマ(穴)に関わる。 |
私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968) |
現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974) |
トラウマとはフロイトの定義において「身体の出来事=自我の傷」である。 |
トラウマは自己身体の上への出来事 もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs ] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年) |
つまり三種類の同一化は次のようになる。
通常、自我理想か超自我との同一化を通した取り入れの下に、自我は理想自我へ投射する。でも集団の理想との同一化はいざとなったらーーとくにギリギリの状況ではーー弱く崩れやすい。強くしつこいのは超自我との同一化、つまり自我の傷の取り入れによる理想自我という鏡像的他者への投射である。
何はともあれ原点にあるのは現実界のトラウマの審級にある超自我との同一化である。
最後に中井久夫の文を掲げておこう。
心的外傷の別の面⋯⋯殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。 阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある。(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年『徴候・記憶・外傷』所収) |
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前回、詩人松下新土くんのツイートを掲げて、なぜかこの三種類の同一化を思い起こしたのでーー直接的な関わりがあるか否かの判断はみなさんにお任せするーーここに参考のために掲げておく。