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2024年3月18日月曜日

人はみな右翼

 


人はみな右翼だよ、根のところでは。少なくともドゥルーズの定義を受け入れるなら。


左翼であることは、先ず世界を、そして自分の国を、家族を、最後に自分自身を考えることだ。右翼であることは、その反対である[Être de gauche c’est d’abord penser le monde, puis son pays, puis ses proches, puis soi ; être de droite c’est l’inverse](ドゥルーズ『アベセデール』1995年)


何よりもまず自分のことが大事さ、そして家族。次に自分の国で、最後に世界のことを考える。人はみなそうだ。世界のことを先に言うヤツは偽善者にほかならない。左翼はタテマエを言い募る連中だ。


柄谷行人)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。


むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。


浅田彰)善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思います。〔・・・〕


日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』1994年)


さあってと、日本人がことさらホンネ右翼かどうかを敢えて断言するつもりはないが、X社交界の囀りを眺めると確かに《善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する》クラスタがあまた存在するのは確かだね、ネトウヨ系は当然だとしても、それ以外にも特に目立つのはクラシック音楽クラスタだな、あの閉域にはひどいホンネ右翼が跳梁跋扈している。それに比べて同じ芸術系でも絵画クラスタはまだいくらマシなんだ、これはどんな具合でそうなるんだろ? ワカルカイ、そこのきみ!


ま、あまり皮肉は言いたくないんだが、古典的音楽家ってのは最悪かもね、倫理的には。


感覚的刺戟と感動とを問題にするならば、言語芸術のうちで最も詩に近く、またこれと自然的に結びつく芸術即ち音楽を詩の次位に置きたい。音楽は確かに概念にかかわりなく、純然たる感覚を通して語る芸術である、従ってまた詩と異なり、省察すべきものをあとに残すことをしない、それにも拘らず音楽は、詩よりもいっそう多様な仕方で我々の心を動かし、また一時的にもせよいっそう深い感動を我々に与えるのである〔・・・〕


これに反しておよそ芸術の価値を、それぞれの芸術による心的開発に従って評価し、また判断力において認識のために合同する心的能力〔構想力と悟性〕の拡張に基準を求めるならば、すべての芸術のうちで音楽は最低の(しかし芸術を快適という見地から評価すれば最高の)地位を占めることになる[so hat Musik unter den schönen Künsten sofern den untersten (so wie unter denen, die zugleich nach ihrer Annehmlichkeit geschätzt werden, vielleicht den obersten) Platz](カント『判断力批判』第53節)



そうじゃないかい、そこのキミ!



音楽家でも快じゃなくて崇高の不快を目指している稀な存在は別かもしれないがね、


自然における崇高の表象に遭遇して、心は動揺を感じる。他方、自然における美についての美的判断は、安らぎを与える観想のなかにある。崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。

Das Gemüt fühlt sich in der Vorstellung des Erhabenen in der Natur bewegt: da es in dem ästhetischen Urteile über das Schöne derselben in ruhiger Kontemplation ist. Diese Bewegung kann […] mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; 〔・・・〕

崇高の感情の質は、不快の感情によって構成されている。対象を判断する能力についての不快である。だが同時に合目的である。この合目性を可能とするものは、主体自身の不可能性が無限の能力の意識を掘り起こし、かつ心はこの不可能性を通してのみ、無限の能力を美的に判断しうるから。

Die Qualität des Gefühls des Erhabenen ist: daß sie ein Gefühl der Unlust über das ästhetische Beurteilungsvermögen an einem Gegenstande ist, die darin doch zugleich als zweckmäßig vorgestellt wird; welches dadurch möglich ist, daß das eigne Unvermögen das Bewußtsein eines unbeschränkten Vermögens desselben Subjekts entdeckt, und das Gemüt das letztere nur durch das erstere ästhetisch beurteilen kann.  (カント『判断力批判』27章)



不幸にも日本にはこの手の不快な崇高の音楽家がほとんどいなんだよな、なんでだろうな。


欲望の音楽(快原理内の音楽)ばっかりなんだ、快原理の彼岸にある欲動の音楽(享楽の音楽)じゃなくて。

不快なものとしての内的欲動刺激[innere Triebreize als unlustvoll](フロイト『欲動とその運命』1915年)

不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ](Lacan, S17, 11 Février 1970)

ラカンは、欲動は《裂け目の光の中に保留されている》(『フロイトの欲動』E851) と言う。〔・・・〕さらに《欲望は快原理によって負わされた限界において〔この裂け目に〕出会う》(E851)と。これは、欲望は快原理の諸限界の範囲内に刻まれている、ということを意味している。

Lacan peut dire qu'elle (la pulsion) est "suspendue dans la lumière d'une béance".(…) "Cette béance, dit-il, le désir la rencontre aux limites que lui impose le principe du plaisir." C'est déjà inscrire le désir dans les limites du principe du plaisir. (J.-A. Miller, DONC Cours du 18 mai 1994)



近代国家はオーケストラを必要とする
オリンピックで日の丸があがるとき
オーケストラがなかったら
だれが君が代を演奏するのだ
アジアを威嚇する
あの大太鼓のどろどろも


オーケストラだけではなく
指揮者 楽譜 作曲家も 国家マシンの一部


ーー高橋悠治「音の静寂静寂の音」(2000)



のせいかね、ひょっとして。これは日本には限らないとはいえ。


悠治は昔から繰り返してんだよな、このたぐいのことを。

作曲者たちを支配する明るい無気力、演奏会場の官僚主義的管理、飼いならされ、しつけられた聴衆、消費の周期ははやくなる。だれもが作曲家、演奏家、聴衆のきめられた役割のなかで、予期される以上でも以下でもない演技をつづける。羊たちの背をなでる生ぬるい風の上に、かすかに灰色の雲がひろがっていく。( 高橋悠治『ロベルト・シューマン』1978年)


日本的羊環境のせいかね?


いずれにせよ、パレスチナジェノサイドのこの現在においてさえ、ゴミ屑囀りを平然としうるのは実に日本的かもよ


アウシュヴィッツ以降、文化はすべてごみ屑となった[Alle Kultur nach Auschwitz, samt der dringlichen Kritik daran, ist Müll](アドルノ『否定弁証法』1966年)