オハヨ。先に示したこの図の自我の傷の取り入れかい? |
あのね、超自我ってのはまったく誤解されてんだよ。例えばドゥルーズやら柄谷やらの超自我はクソだね、何度も言ってきたつもりだが。この現在でさえ、世界に5人ぐらいしかいないね、まともに超自我を把握してる人物は。蚊居肢散人を含めて6人だな(?)。日本フロイトラカン派にはもちろん皆無だよ、そんなものに依拠して何やら言ってこられてもな。 |
ここではひとつだけ言っておくよ、美の起源は超自我だと。 |
美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。 Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳) |
ま、事実上、愛の起源も超自我だけどな |
ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」) |
いやいや、美の起源や愛の起源どころか主体の起源が超自我さ。 |
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現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965) |
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私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a). …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966) |
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ーーすなわち、《超自我は斜線を引かれた主体と書きうる [le surmoi peut s'écrire $]》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)
要するに超自我は主体を呑み込む穴で、父の名は超自我に対する防衛としての穴埋めだ、《父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]》 (Lacan, S17, 18 Mars 1970)
この穴こそフロイトの自我の傷のことだ。
ま、ボクは日本フロイトラカン派の注釈書は常々焚書処分にすべきだと言ってきているわけでさ、最近の十川幸司やら立木庸一やら松本卓也やらの書も含めてさ。そんな連中の臭いが染み付いた質問、金輪際してくんなよ …………… 何かまた言ってくる人がいると厄介だからーーこれはたんにラカン派の解釈でしょ、とかーーフロイト自身からも付け加えておくさ。
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