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2024年3月19日火曜日

世界に6人しか知らないこと

 

オハヨ。に示したこの図の自我の傷の取り入れかい?





あのね、超自我ってのはまったく誤解されてんだよ。例えばドゥルーズやら柄谷やらの超自我はクソだね、何度も言ってきたつもりだが。この現在でさえ、世界に5人ぐらいしかいないね、まともに超自我を把握してる人物は。蚊居肢散人を含めて6人だな(?)。日本フロイトラカン派にはもちろん皆無だよ、そんなものに依拠して何やら言ってこられてもな。


ここではひとつだけ言っておくよ、美の起源は超自我だと。


美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。

Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』Jean Genet, L’atelier d’Alberto Giacometti, 1958、宮川淳訳)



ま、事実上、愛の起源も超自我だけどな


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)




いやいや、美の起源や愛の起源どころか主体の起源が超自我さ。


現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


ーーすなわち、《超自我は斜線を引かれた主体と書きうる [le surmoi peut s'écrire $]》 (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)



つまり超自我は対象aの穴だよ、

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である[l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel] (Lacan, S16, 27 Novembre 1968)


これが斜線を引かれた主体だ、

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

対象aは主体自体である[a ≡ $]

le petit a est le sujet lui-même( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)



要するに超自我は主体を呑み込む穴で、父の名は超自我に対する防衛としての穴埋めだ、《父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]》  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


私は私で、穴だろ? 穴は呑み込むこともあれば、ときに吐き出すこともある。何を吐き出すんだって? 名だ、名としての父だ。

Je suis ce que je suis, ça c'est un trou, non ? Un trou […], un trou ça engloutit, et puis il y a des moments où ça recrache. Ça recrache quoi ? Le nom, le Père comme nom.”    (Lacan, S22, 15 Avril 1975)


この穴こそフロイトの自我の傷のことだ。



現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

トラウマは自己身体の上への出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs ] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)




ま、ボクは日本フロイトラカン派の注釈書は常々焚書処分にすべきだと言ってきているわけでさ、最近の十川幸司やら立木庸一やら松本卓也やらの書も含めてさ。そんな連中の臭いが染み付いた質問、金輪際してくんなよ


……………


何かまた言ってくる人がいると厄介だからーーこれはたんにラカン派の解釈でしょ、とかーーフロイト自身からも付け加えておくさ。


超自我が設置された時、攻撃欲動の相当量は自我の内部に固着される[Mit der Einsetzung des Überichs werden ansehnliche Beträge des Aggressionstriebes im Innern des Ichs fixiert]. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)


超自我は事実上、欲動の固着であり、フロイトにとって固着とは常に《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(『続精神分析入門』第29講, 1933 年)だ。


この固着は、《幼児期に固着された欲動[der Kindheit fixierten Trieben]( フロイト『性理論三篇』1905年)であり、自我の傷への固着という個性刻印だ。


トラウマは自己身体の上への出来事もしくは感覚知覚 である[Die Traumen sind entweder Erlebnisse am eigenen Körper oder Sinneswahrnehmungen]。また疑いもなく、初期の自我の傷である[gewiß auch auf frühzeitige Schädigungen des Ichs (narzißtische Kränkungen)]〔・・・〕


このトラウマの作用はトラウマへの固着と反復強迫として要約できる[Man faßt diese Bemühungen zusammen als Fixierung an das Trauma und als Wiederholungszwang. ]


これらは、標準的自我と呼ばれるもののなかに取り込まれ、絶え間ない同一の傾向をもっており、不変の個性刻印と呼びうる。[Sie können in das sog. normale Ich aufgenommen werden und als ständige Tendenzen desselben ihm unwandelbare Charakterzüge verleihen] (フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


この「トラウマ=身体の出来事=自我の傷」への固着という「不変の個性刻印」が、事実上、ラカンの斜線を引かれた主体$だね。


これが、ラカンが先に示した「現実界のなかの穴は主体」と言いつつ、《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel …je réduis à la fonction du trou]》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)としていることあり、さらに《対象aはリビドーの固着点に現れる[petit(a) …apparaît que les points de fixation de la libido ]》(Lacan, S10, 26 Juin 1963)としつつ、《対象aは穴[ l'objet(a), c'est le trou]》(Lacan, S16, 27 Novembre 1968)、かつ《この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi ]》(Lacan, S13, 09 Février 1966)と言っていることだ。


要するに、超自我とはトラウマの穴(自我の傷)への欲動の固着という誰もがもっている不変の刻印だ。すなわち、事実上、《超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion. ]》(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)となる。



私は病気だよ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているからな[j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde](Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)