このブログを検索

2024年4月15日月曜日

マグリットの窓を覆う小林秀雄の自意識

 

前回掲げた小林秀雄を再掲することから始める。

時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である。(小林秀雄『様々なる意匠』1929年)


そして柄谷行人は次のように注釈している。

小林秀雄の批評は、「ロマン派のディレンマ」を全面的に示している。彼にとっては「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さ過ぎもしない」(「様々なる意匠」)。いいかえれば、われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。(柄谷行人「風景の発見」初出『季刊芸術』1978年夏号『日本近代文学の起源』1980年)


これこそマグリットの窓が何よりもまず示していることである、ーー《我々は自己の外側にある世界を見る。だが、自己自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない》と。



窓の問題は『人間の条件』を生んだ。部屋の内側から見える窓の前に、私は絵を置いた。その絵は、絵が覆っている風景の部分を正確に表象している。したがって絵のなかの樹木は、その背後、部屋の外側にある樹木を隠している。それは、見る者にとって、絵の内部にある部屋の内側であると同時に、現実の風景のなかの外側である。

これが、我々が世界を見る仕方である。我々は自己の外側にある世界を見る。だが、自己自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない。

Le problème de la fenêtre donna La Condition humaine. Je plaçai devant une fenêtre vue de l’intérieur d’une chambre un tableau représentant exactement la par­tie de paysage recouverte par ce tableau. L’arbre représenté par ce tableau cachait donc l’arbre situé derrière lui, hors de la chambre.  Il se trouvait pour le spectateur à la fois à l’intérieur de la chambre sur le tableau et à l’extérieur dans le paysage réel. ... C'est ainsi que nous voyons le monde. Nous le voyons à l'extérieur de nous-mêmes et cependant nous n'en avons qu'une représentation en nous. (ルネ・マグリットRené MAGRITTE,  La Ligne de Vie, 1940)





ちなみに、《ルネ・マグリットは、芸術家と呼ばれることを嫌った。むしろ、絵画という手段によって世界と交感する思想家と見なされるのを好んだ。He (René Magritte) disliked being called an artist, preferring to be considered a thinker who communicated by means of paint.》(James Harkness, ‘Translator's Introduction', in This is not a Pipe, Michel Foucault,1983)ーーだそうだ。



ところでラカンはこのマグリットの窓を次のように図式化している。




ーー窓[fenêtre]、これをラカンは穴とした。



マグリットがとてもしばしばその作品で示しているもの…それは穴の形式であり、すべての現象はこの対象aに関係する[MAGRITTE qui l'a, dans ses tableaux, répété bien souvent,…ce qui est là sous forme de trou, et qui selon toute apparence, doit bien avoir quelque chose à faire avec cet objet(a)] (Lacan, S13, 30 Mars 1966)


この穴としての対象aは主体ーー厳密には、斜線を引かれた主体$ーーのことである。

この対象aは、主体にとって本質的なものであり、異者性によって徴付けられている[ce (a), comme essentiel au sujet et comme marqué de cette étrangeté](Lacan, S16, 14  Mai  1969)

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet. ](Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


ジャック=アラン・ミレールを引用して確認しておこう。

穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $]

A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)

対象aは主体自体である[a ≡ $]

le petit a est le sujet lui-même( J.-A. MILLER, - Illuminations profanes - 16/11/2005)


すなわち[$≡Ⱥ ≡a]である。この主体の穴とは欲動の穴でもある、《欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou]》(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)。つまり主体は穴とは欲動の主体のことを指している。


この穴を穴埋めするのが幻想である。



現実はない。現実はたんに幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)

幻想が主体にとって根源的な場をとるなら、その理由は主体の穴を穴埋めするためである[Si le fantasme prend une place fondamentale pour le sujet, c'est qu'il est appelé à combler le trou du sujet]   (J.-A. Miller, DU SYMPTÔME AU FANTASME, ET RETOUR, 8 décembre 1982)


この主体の穴を穴埋めする幻想が先に掲げた柄谷行人の《われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。》(「風景の発見」)に相当する。かつまたマグリットの窓に描かれた絵ーー《自己自身のなかにある世界の表象を抱くに過ぎない》ものーーである。


ラカン派においては、厳密にはリアルな主体の穴ーーマグリットの窓ーーを覆うものは二種類ある。イマジネールな自我とシンボリックな言語である。




下部の[a]が主体の穴(欲動の主体)、上部左のi (a)が自我、上部右のAが言語である。


さてふたたびミレールにて確認しておこう。


ラカンが対象aを発明したとき、それは穴としての、空虚としての対象aであり、欲動がその周りを循環することを余儀なくさせるものとしてである。Quand Lacan invente l'objet a, ce est…comme trou, comme vide,… qui oblige la pulsion à le contourner. 〔・・・〕


われわれが通常、"対象a"と呼ぶものは、たんに対象aの形式の支えあるいは化身に過ぎない。Ce que nous appelons couramment « objet a » est simplement le support ou l'incarnation de la formule de l'objet a. 〔・・・〕


眼差しは厳密に対象aの化身である。光との関係が必要ゆえに、物質的な具現化である。

Le regard est précisément l'incarnation de l'objet a. C'est une incarnation matérielle, puisque la relation à la lumière lui est nécessaire. 〔・・・〕

対象aには、構造的消失がある。対象aは補填 (穴埋め)によってのみ代表象されうる。

Dans l'objet a, il s'agit d'une élision de structure, laquelle ne peut être représentée que par un supplément. 


穴としての対象aは、枠・窓と等価とすることができる。それは鏡とは逆である。対象aは捕まえられない。特に鏡には。長いあいだ鏡像段階をめぐって時を費やしたラカンは、それを強調している。

En tant que trou, l'objet a peut être équivalent au cadre, à la fenêtre, à l'opposé du miroir. L'objet a ne se laisse pas capter, spécialement dans le miroir. Lacan, qui a passé beaucoup de temps avec le miroir, le souligne. Il s'agit plutôt de la fenêtre que nous constituons nous-mêmes, en ouvrant les yeux. 〔・・・〕


(肝腎なのは)窓を見て自らを知ることである。欲動の主体としての自己自身を。あなたは享楽している、永遠の失敗のなかを循環している。voir la fenêtre et se connaître comme sujet de la pulsion, soit ce dont vous jouissez en en faisant le tour dans un sempiternel échec.(J.-A.Miller, L’image reine, 2016)



基本的には人はみなマグリットの窓を穴埋めして世界を見ている。だがそれは「現実」と呼ばれる自意識、あるいは幻想に過ぎないのである。重要なのは自らの窓枠を知ることである、言い換えれば、リアルな欲動の主体を。


なお欲動の主体の別名は超自我である[参照]。


私は大他者に斜線を記す、Ⱥ(穴)と。…これは、大他者の場に呼び起こされるもの、すなわち対象aである。この対象aは現実界であり、表象化されえないものだ。この対象aはいまや超自我とのみ関係がある[Je raye sur le grand A cette barre : Ⱥ, ce en quoi c'est là, …sur le champ de l'Autre, …à savoir de ce petit(a).   …qu'il est réel et non représenté, …Ce petit(a)…seulement maintenant - son rapport au surmoi : ](Lacan, S13, 09 Février 1966)


先に示したように、$=Ⱥ=aであり、ここに超自我が加わる。したがってーー、


超自我は斜線を引かれた主体と書きうる [le surmoi peut s'écrire $] (J.-A. MILLER, LA CLINIQUE LACANIENNE, 24 FEVRIER 1982)

超自我の真の価値は欲動の主体である[la vraie valeur du surmoi, c'est d'être le sujet de la pulsion](J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)

ーーとなる。