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2024年4月14日日曜日

時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしない

 

37歳(1941年生)の柄谷行人が、27歳(1902年生)の小林秀雄を引用してこう言っている。


われわれは、反ロマン派的であること自体がロマン派的であるような「ロマン派のディレンマ」に依然として属している。しかし、それを「リアリズムのディレンマ」といいかえてもさしつかえない。なぜなら、リアリズムはたえまない非親和化の運動であり、反リアリズムこそリアリズムの一環にほかならないからである。この困難がいかなるものかをみるためには、むろん狭義のロマン主義・リアリズムといった概念から離れなければならない。〔・・・〕


小林秀雄の批評は、「ロマン派のディレンマ」を全面的に示している。彼にとっては「時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さ過ぎもしない」(「様々なる意匠」)。いいかえれば、われわれが「現実」とよぶものは、すでに内的な風景にほかならないのであり、結局は「自意識」なのである。小林秀雄がたえずくりかえしてきたのは、「客観的なもの」ではなく「客観」にいたろうとすること、「自意識の球体を破砕する」ことだったといえる。だが、そのことの不可能性を小林秀雄ほど知っていた者はいない。たとえば、彼の『近代絵画』は風景画論であり、さらにそこにある「遠近法」から脱しようとするはてしない認識的格闘の叙述である。だが、小林秀雄だけでなく、『近代絵画』の画家たちもまた「風景」から出られなかったのであり、日本の浮世絵やアフリカのプリミティヴな芸術に彼らが注目したことすら「風景」のなかでの出来事なのである。だれもそこから出たかのように語ることはできない。私がここでなそうとするのは、しかし風景という球体から出ることではない。この「球体」そのものの起源を明らかにすることである。(柄谷行人「風景の発見」初出『季刊芸術』1978年夏号『日本近代文学の起源』1980年)



結局、初期小林秀雄が断言していることは、ラカンが言ってることとほとんど等価であるだろう。

時代意識は自意識より大き過ぎもしなければ小さすぎもしないとは明瞭な事である。(小林秀雄『様々なる意匠』1929年)

現実はない。現実はたんに幻想によって構成されている[il n'y a pas de réalité.La réalité n'est constituée que par le fantasme](Lacan, S25, 20 Décembre 1977)




現在のエビデンス至上主義の世代には思いも寄らぬ観点かもしれないが、柄谷行人はさらに『隠喩としての建築』で、次のように展開している。



経験科学の真理にかんしては、「確証可能性 confirmability」をあげる論理実証主義者(カルナップ)と「反証可能性 falsifability」をとなえるポパーとのあいだに、有名な論争があった。ポパーの考えでは、科学法則はすべて帰納的な支持をもつ仮説でしかなく、観察によってそれと衝突する「否定的データ」が発見されると、その例を肯定的事例として証明できるような新しい包括的な理論が設定され、理論の転換がおこる。したがって、「否定的データ」の発見が科学の進歩や発展の原動力である。


ところが、T.クーンらに代表される近年の科学史家は、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはかる客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないことを主張する。すなわち、経験的データが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわち認識論的パラダイムの下で見出される、と。そして、それが極端化されると、「真理」を決定するものはレトリックにほかならないということになる。(柄谷行人「形式化の諸問題」『隠喩としての建築』所収、1983年)

たとえば、ポパー、クーン、ファイヤアーベントらの「科学史」にかんする事実においては、科学が事実・データからの帰納や“発見”によるのではなく、仮説にもとづく“発明”であること、科学的認識の変化は非連続的であること、それが受けいれられるか否かは好み(プレファレンス)あるいは宣伝(プロパガンダ)・説得(レトリック)によること……などという考えが前提になっている。考えてみればすぐわかることだが、このような科学史(メタ科学)的認識そのものが、その対象、たとえば量子力学やサイバネティックスにもとづいいる。科学史をそのように変化させたののは、すでに現代の科学が経験・データではなく知的構成(建築)にもとづくといわざるをえない事態である。科学史あるいはもっと広く思想史において用いられる理論的枠組(たとえば構造主義)は、科学自体から導入されている。この関係はのちに説明するように自己言及的(セルフ・リファレンシャル)である。すなわち、科学史あるいは思想史は、それが対象とするものに逆に属してしまうのであって、それらはけっして外在的、あるいは“超越的”(メタ)であることができない。(柄谷行人「隠喩としての建築」『隠喩としての建築』所収、1983年)


要するにエビデンスはプロパガンダにほかならない。これ自体、ニーチェやラカンが物理学を事例に言ってることと等価である。

科学が居座っている信念は、いまだ形而上学的信念である[daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht] (ニーチェ『 悦ばしき知 』第344番、1882年)

物理学とは世界の配合と解釈にすぎない[dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung](ニーチェ『善悪の彼岸』第14番、1886年)


物理学の言説が物理学者を決定づける。その逆ではない [c'est que

c'est le discours de la physique qui détermine le physicien, non pas le contraire](Lacan, S16, 20 Novembre 1968)

言説自体は、常に仮象の言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant] (Lacan, S19, 21 Juin 1972)


さらにニーチェは次のようにも言っているが、上のラカンはひょっとしてこのニーチェをパクったのではないか。


「仮象の」世界が、唯一の世界である。「真の世界」とは、たんに嘘によって仮象の世界に付け加えられたにすぎない…[Die »scheinbare« Welt ist die einzige: die »wahre Welt« ist nur hinzugelogen... ](ニーチェ『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年)

現象[Phänomenen]に立ちどまったままで《あるのはただ事実のみ [es giebt nur Thatsachen]》と主張する実証主義[Positivismus] に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実はなく、あるのはただ解釈のみ[nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen] と。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。〔・・・〕


総じて「認識」という言葉が意味をもつかぎり、世界は認識されうるものである。しかし、世界は別様にも解釈されうるのであり、それはおのれの背後にいかなる意味をももってはおらず、かえって無数の意味をもっている。---「遠近法主義」。

[Soweit überhaupt das Wort »Erkenntnis« Sinn hat, ist die Welt erkennbar: aber sie ist anders deutbar, sie hat keinen Sinn hinter sich, sondern unzählige Sinne. – »Perspektivismus.«](ニーチェ『力への意志』1886/87)


上のようなタグイのことに固執して強調してしまえばオシマイところがないではないが(今私がこうやって書いていること自体が仮象つまり嘘となってしまい、最近はあまり言わないようにしている)、とはいえニーチェや小林秀雄の時代に比べて、21世紀はあまりにも知的退行したんじゃないかね、ーー《いつもニーチェを思う。私たちは、繊細さの欠如によって科学的となるのだ[Toujours penser à Nietzsche : nous sommes scientifiques par manque de subtilité. ]》(『彼自身によるロラン・バルト』1975年)


もっともニーチェ、あるいはフロイトラカンにおいて仮象でないものはある。



すべてが仮象ではない。現実界がある。社会的結びつきの現実界は、性関係の不在である。無意識の現実界は話す身体である[tout n'est pas semblant, il y a un réel. Le réel du lien social, c'est l'inexistence du rapport sexuel. Le réel de l'inconscient, c'est le corps parlant. ]〔・・・〕

象徴秩序は今、仮象のシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属しているのである[L'ordre symbolique est maintenant reconnu comme un système de semblants qui ne commande pas au réel, mais lui est subordonné. ](J.-A. Miller, L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT, 2014)


ーー《言語は存在しない[le langage, ça n'existe pas. ]》(Lacan, S25, 15 Novembre 1977)+《象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage]》(Lacan, S25, 10 Janvier 1978)、➡︎《象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.]》(J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)


私は私の身体で話している。私は知らないままでそうしている。だから私は、私が知っていること以上のことを常に言う[Je parle avec mon corps, et ceci sans le savoir. Je dis donc toujours plus que je n'en sais. ]〔・・・〕

現実界、それは話す身体の神秘、無意識の神秘である[Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient](Lacan, S20, 15 mai 1973)


この話す身体はフロイトの欲動ーー欲動の身体ーーのことであり、ニーチェの力への意志である。

現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである。この意味で無意識と話す身体はひとつであり、同じ現実界である[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ». En ce sens, l'inconscient et le corps parlant sont un seul et même réel. ](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)


ーー《しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか?[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? 」》(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888)


ーー《言語はレトリックである。言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしない[die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme Übertragen ]》(ニーチェ講義録WS 1871/72 – WS 1874/75)、➡︎《言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel]》(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)




※附記


フロイトラカンには、「欲望の言語」と「欲動の身体」ーー「享楽の身体」ーーがある[参照]。前者が象徴界で、後者が現実界である。




この区分のとき、自我の想像界は象徴界に含まれる。

想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique](Lacan, S2, 29 Juin 1955)


したがって小林秀雄の云う「自意識」は欲望の言語の審級あり仮象あるいは幻想である。ーー《(実際は)欲望の主体はない。幻想の主体があるだけである[il n'y a pas de sujet de désir. Il y a le sujet du fantasme]》(Lacan, AE207, 1966)


……………

なお『日本近代文学の起源』は次の文で終わっている。

小林秀雄はいっている。《私小説は亡びたが、人々は「私」を征服したらうか。私小説は又新しい形で現れて来るだらう。フロオベルの「マダムボヴァリーは私だ」といふ有名な図式が亡びないかぎりは》(「私小説論」)。しかし、こういういい方は馬鹿げている。われわれはこう問わねばならない。物語は亡びたが、人々は「物語」を征服したろうか、と。(柄谷行人「構成力について」『日本近代文学の起源』1980年)


ここでの「私」、「物語」が何の言い換えであるかは敢えて言うまでもなかろう。