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2024年4月22日月曜日

日本のチョロいフロイトラカン注釈書は焚書処分にして中井久夫を読め!

 

ボクは常々言ってきたつもりだがな、日本のチョロいフロイトラカン注釈書は焚書処分にして中井久夫を読めと。


ここでその良き例をひとつ挙げよう。


これ自体何度か掲げてきたんだが、中井久夫はフロイト概念「異者」 Fremdkörperを使って外傷性記憶について次のように記している。

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



たんに事故による外傷性出来事の記憶だけでなく幼児型記憶も含めて、《文脈組織体の中に組み込まれない異物》、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》とあるが、これがフロイトの《同化不能な異物[unassimilierte Fremdkörper ]》(『精神分析運動の歴史』1914年)のわかりやすく言い換えた表現である(フロイトにとって「同化不能な」という形容詞は、自我に取り入れられずエスに置き残されることを意味する)。


私はフロイトの"Fremdkörper"をその身体的要素を強調するために「異者としての身体」と訳すのを好むが、邦訳では伝統的に「異物」と訳されてきた(この概念はもともとラテン語 "corpus alienum" に起源があり、直訳すれば「エイリアンの身体」である)。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物=異者としての身体[Fremdkörper] のように作用し、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子としての効果を持つ[das psychische Trauma, resp. die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange Zeit nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muss]。〔・・・〕


このトラウマは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛みを呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。

..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


ラカンの現実界とはこのレミニサンスを引き起こす「異物=異者としての身体=トラウマ」にほかならない。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。これを「強制」呼ぼう。これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって。レミニサンスは想起とは異なる[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme. …Disons que c'est un forçage.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.   …la réminiscence est distincte de la remémoration] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)




事実、ラカンは現実界をモノなる異者(異者としての身体)と定義している。

フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976)

モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09  Décembre  1959)

われわれにとって異者としての身体[ un corps qui nous est étranger](Lacan, S23, 11 Mai 1976)


フロイトにとってモノと異者身体は等価であり、エスの欲動蠢動である。


同化不能な部分(モノ)[einen unassimilierbaren Teil (das Ding)](フロイト『心理学草案(Entwurf einer Psychologie)』1895)

同化不能な異者としての身体[unassimilierte Fremdkörper ](フロイト『精神分析運動の歴史』1914年)

エスの欲動蠢動は、自我組織の外部に存在し、自我の治外法権である。われわれはこのエスの欲動蠢動を、たえず刺激や反応現象を起こしている異者としての身体 [Fremdkörper]の症状と呼んでいる。 Triebregung des Es … ist Existenz außerhalb der Ichorganisation …der Exterritorialität, …betrachtet das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年、摘要)



要するにフロイトにおいて「同化不能=モノ=異者=トラウマ=エスの欲動蠢動」であり、ラカンが次のように言ったとき、現実界のトラウマはモノなる異者の形式だということなのである。

現実界は、同化不能な形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)


異者身体としてのエスの欲動蠢動の別の言い方は《無意識のエスの反復強迫[Wiederholungszwang des unbewußten Es]》(フロイト『制止、症状、不安』10章、1926年)であり、この強迫的な反復は同化不能ゆえに起こる。


フロイトの反復は、同化不能な現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する[La répétition freudienne, c'est la répétition du réel trauma comme inassimilable et c'est précisément le fait qu'elle soit inassimilable qui fait de lui, de ce réel, le ressort de la répétition.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un,- 2/2/2011)


以上、敢えて言わせてもらえば、ある意味で、フロイトラカン理論の核のひとつは冒頭の中井久夫の実に簡潔明瞭な文にあるとさえ言えるのだ。そのぐらい重要な記述である、中井久夫が阪神大震災被災後に没頭した「トラウマ研究」の輝かしき成果として。


ところでラカンの現実界はもちろん享楽である、《享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel]》(Lacan, S23, 10 Février 1976)


欲望は大他者に由来する、そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年)


つまり享楽とは自我に同化不能なモノなる異者身体ーー中井久夫曰くの《文脈組織体の中に組み込まれない異物》、《語りとしての自己史に統合されない「異物」》ーーにほかならない。


現実界のなかの異者概念は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある[une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance ](J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III, 6  -16/06/2004)

フロイトのモノ、これが後にラカンにとって享楽となる[das Ding –, qui sera plus tard pour lui la jouissance]。…フロイトのエス、欲動の無意識。事実上、この享楽がモノである[ça freudien, l'inconscient de la pulsion. En fait, cette jouissance, la Chose](J.A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009)



わかるかい、冒頭の中井久夫文はフロイトのエス、欲動の無意識の核を示しているのが?