いまさらだが集団的西側には腹が立って腹が立って日々我慢がならないね。スラブ人同士の殺し合いの画策した後は、西アジア人同士の殺し合い祈願、さらに近未来は東アジア人同士の殺し合いの策謀だからな。で、属国日本はこれらに尻尾を振るばかりというテイタラク。 |
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そろそろ集団的西側同士の殺し合いを「正しく」計画すべきじゃないかね。誤解のないように付け加えておけば、ここでの「集団的西側」はトッドが『西洋の敗北』で言っている意味だがね。 |
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米国は国民国家ではなく、帝国的国家と見るべきか?多くの人がそう考えている。ロシア人自身、それを超えているわけではない。ロシアが「集団的西側」と呼ぶものは、一種の多元主義的帝国システムであり、ヨーロッパは単なる属国にすぎないということだ。しかし、帝国という概念を使うには、支配する中心と支配される周辺という一定の基準を使用する必要がある。中心部にはエリートたちの共通の文化があり、理性的な知的生活が営まれているはずである。後述するように、アメリカではもはやそうではない。 Faut-il voir dans les États-Unis, plutôt qu'un État-nation, un État impérial ? Beaucoup l'ont fait. Les Russes eux-mêmes ne s'en privent pas. Ce qu'ils appellent « Occident collectif », au sein duquel les Européens ne sont que des vassaux, est un genre de système impérial pluraliste. Mais utiliser le concept d'empire exige l'observance de certains critères : un centre dominant et une périphérie dominée. Ce centre est censé posséder une culture commune des élites ainsi qu'une vie intellectuelle raisonnable. Ce n'est plus le cas, on le verra, aux États-Unis.(エマニュエル・トッド『西洋の敗北』Emmanuel Todd, La Défaite de l'Occident, 2024) |
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ところでイランの最高指導者アリー・ハーメネイーは、中東と西アジアについて次のように言ったそうだ。 |
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なぜ中東なのか?中東とはどういう意味か?それはすなわち、世界の中心をヨーロッパと見ることである。まさに(イスラム圏のとんち話として有名な)モッラーナスロッディーン師の物語にあったような、『世界の中心はどこか?』『私のロバ小屋の釘のあるところ、ここが世界の中心だ』という問答そのままだ!ヨーロッパから遠く離れた地域は、まとめて極東と名づけられた。一方、ヨーロッパに近い北アフリカなどの地域は近東と呼ばれた。そしてそれらの中間にある場所が、中東になったというわけである。つまり、諸国の位置する地域名を指す言い方の基準・指標が、ヨーロッパから見た表現となっているのだ。西洋人はこれほどまでに大きい権利を、自らに与えているのである!私が口を酸っぱくして、中東という呼ばずに西アジアと呼ぼう、と主張するのは、このためである。今後は西アジアだ。中東などと言うべき理由はない。 |
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おい、中東なんて言葉を使うこと自体、集団的西側の帝国主義イデオロギーに洗脳されてる証拠だからな。 |
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もうひとつ誤解のないように附記しておくが、蚊居肢子はいたって平和的な人間だからな。 |
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私はまったく平和的な人間だ。私の希望といえば、粗末な小屋に藁ぶき屋根、ただしベッドと食事は上等品、非常に新鮮なミルクにバター、窓の前には花、玄関先にはきれいな木が五、六本――それに、私の幸福を完全なものにして下さる意志が神さまにおありなら、これらの木に私の敵をまあ六人か七人ぶら下げて、私を喜ばせて下さるだろう。そうすれば私は、大いに感激して、これらの敵が生前私に加えたあらゆる不正を、死刑執行まえに許してやることだろう――まったくのところ、敵は許してやるべきだ。でもそれは、敵が絞首刑になるときまってからだ。(ハイネ『随想』) |
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とはいえ六人か七人ぶら下げるだけではいくらなんでも足りないがね。
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