大隅良典氏の「科研費について思うこと」という論文に行き当たったので、ここに備忘。
◾️「科研費について思うこと」 大隅良典 東京工業大学 フロンティア研究機構 特任教授、 2015 年 PDF |
文科省、JSPS には、基礎研究を支えるべく科研費について様々な工夫をして頂いているが、私が特に生命科学の領域の研究に関して、科研費の制度について日頃思うことについて述べてみる。 科学研究費“補助金”とは、元来研究ができる環境が整った上で、さらに成果が期待できる研究をまさに「補助」して支援する制度であり、従って補助事業に資さない什器の購入などには使えない。以前は講座費という形で研究費があったので、科研費がなくとも最低限の研究を進めることができた。これは研究の裾野が拡がるという大きな意味を持っていた。しかし、昨今の国立大学法人等に対する運営費交付金の削減と、予算の競争的資金化によって、大学や研究所の経常的な活動のための資金が極端に乏しくなってしまった。運営費交付金はほとんど配分されないため、科研費等の競争的資金なしには研究を進めることは困難である。すなわち、補助金が補助金ではなくなり、「研究費」そのものになっている。さらに、研究科や研究所の経常的な活動の費用を捻出するためには、競争的資金の間接経費が重要な比率を持つようになった。 |
科研費の基本が個人研究であるという考えは、一見妥当なように聞こえるが、実は問題点も多い。例えば、競争的資金の獲得が運営に大きな影響を与えることから運営に必要な経費を得るためには、研究費を獲得している人、将来研究費を獲得しそうな人を採用しようという圧力が生まれた。その結果、はやりで研究費を獲得しやすい分野の研究者を採用する傾向が強まり、大学における研究のあるべき姿が見失われそうになっているように思える。このことは若者に対しても少なからず影響があり、今はやりの研究課題に取り組みたいという指向性が強くなり、新しい未知の課題に挑戦することが難しいという雰囲気をますます助長している。結果的に、次代の研究者はますます保守的になって新しいものを生み出せなくなってしまうのではないだろうか。 (以下略) |
この大隅良典氏の論は、私が何度か引用してきた、最近の大学人の劣化ぶりを指摘するベルギーゲント大学のラカン派ポール・バーハウの見解とともに読むことができる。
◾️ポール・バーハウ「アイデンティティ、信頼、コミットメント、そして現代の大学の失敗」2013年 |
私のテーゼは、ほとんどの大学は新自由主義的言説の餌食になっているということだ。これは大学にとっても社会にとっても悪である。大学にとって悪なのは、創造性と批評精神を崩壊させるから。社会にとって悪なのは、学生に新自由主義のアイデンティティを書き込むから。 |
It is my thesis that most universities have fallen prey to the neoliberal discourse as well, and that this is bad both for the universities and for society. It is bad for the university because it destroys creativity and critical thinking. It is bad for society because it endorses a neoliberal identity in students. 〔・・・〕 |
より高度な教育にとっての機関の現代的使命言説は「生産性」「競争性」「革新」「成長」「アウトプット資金調達」「コアビジネス」「投資」「ベンチマーキング」等々である。これらの中いくつかの表現はかつての時代の、例えば「多様性と尊敬の育成」、「精神の修養」等を指し示しているかに見える。だが欺かれてはならない。これは単に粉飾に過ぎない。新しい言説の核心は経済である。 |
The contemporary mission statements of institutions for higher education are crammed with expressions such as ‘productivity', ‘competitiveness', ‘innovation', ‘growth', ‘output financing', ‘core business', ‘stakeholders', ‘bench marking' etcetera. Some expressions in these mission statements refer to former times – e.g. ‘fostering diversity and respect', and ‘cultivating the mind' – but don't let that mislead you, this is just window dressing. The core of the new narrative is economic. 〔・・・〕 |
長いあいだ、大学は自身の小宇宙のなかの静的な社会だった。〔・・・〕しかし、状況は劇的に変貌した。大学人は不可視の行政機関の音楽に踊ることを余儀なくされている。 |
For a long time, universities were static societies in their own microcosm (…) however, this situation changed dramatically, …they are compelled to dance to the music of an invisible administration. |
(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities, 2013) |
◾️ポール・バーハウ「新自由主義時代の高等教育」、2015年 |
それほど昔のことではない、支配的ナラティヴは少なくとも四種類の言説のあいだの相互作用を基盤としていたのは。それは、政治的言説・宗教的言説・経済的言説・文化的言説であり、その中でも政治的言説と宗教的言説の相が最も重要だった。現在、これらは殆ど消滅してしまった。政治家はお笑い芸人のネタである。宗教は性的虐待や自爆テロのイメージを呼び起こす。文化に関しては、人はみな芸術家となった。唯一残っている支配的言説は経済的言説である[There is only one dominant discourse still standing, namely the economic]。われわれは新自由主義社会に生きている。そこでは全世界がひとつの大きな市場であり、すべてが生産物となる。さらにこの社会はいわゆる実力主義に結びついている。人はみな自分の成功と失敗に責任がある。独力で出世するという神話。あなたが成功したら自分自身に感謝し、失敗したら自分自身を責める。そして最も重要な規範は、利益・マネーである。何をするにもカネをもたらさねばならない。これが新自由主義社会のメッセージである。(ポール・バーハウPaul Verhaeghe, Higher education in times of neoliberalism, November 2015) |
※より一般論としては、「主人はマネー(古井由吉とラカン)」を参照。