オハヨ。なんだい、僕は何度も繰り返しているつもりだが、日本のラカン研究者の本ってのは読んだことがないからな、せいぜいネット上に落ちているのをチラ見する程度だよ。で、なんでそんな基本のキのこと書いてないんだろ、フシギだねえ。
ま、いいや。以下、お嬢さん向けのきわめて簡潔版だ。
享楽は現実界にある。現実界の享楽は、マゾヒズムによって構成されている。マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。フロイトはそれを発見したのである[la jouissance c'est du Réel. …Jouissance du réel comporte le masochisme, …Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, il(Freud) l'a découvert,] (Lacan, S23, 10 Février 1976) |
このマゾヒズムとしての現実界の享楽はフロイトのリアルな欲動の言い換えだよ。 |
欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
で、現実界の享楽は「トラウマ=モノ=母」でもある。 |
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問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっている[le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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享楽はモノの側にある[la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年) |
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノ[das Ding]の場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding.](Lacan, S7, 16 Décembre 1959) |
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これもフロイトにおいて同様。 まず母=トラウマ=受動性。 |
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母は幼児にとって過酷なトラウマの意味を持ちうる[die Mutter … für das Kind möglicherweise die Bedeutung von schweren Traumen haben](フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年) |
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母のもとにいる幼児の最初の出来事は、性的なものでも性的な色調をおびたものでも、もちろん受動性である[Die ersten sexuellen und sexuell mitbetonten Erlebnisse des Kindes bei der Mutter sind natürlich passiver Natur. ](フロイト『女性の性愛 』第3章、1931年) |
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トラウマを受動的に体験した自我[Das Ich, welches das Trauma passiv erlebt](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年) |
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そしてこの受動性がマゾヒズムだ。 |
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マゾヒズム的とは、その根において女性的受動的である[masochistisch, d. h. im Grunde weiblich passiv.](フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』1928年) |
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ーー「女性的受動的」とあるのは畳語法であり、ここでの女性性は受動性の意味。 |
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男性的と女性的とは、あるときは能動性と受動性の意味に、あるときは生物学的な意味に、また時には社会学的な意味にも用いられている。これら三つのつの意味のうち最初の意味が、本質的なものであり、精神分析において最も有用なものである。Man gebraucht männlich und weiblich bald im Sinne von Aktivität und Passivität, bald im biologischen und dann auch im soziologischen Sinne. Die erste dieser drei Bedeutungen ist die wesentliche und die in der Psychoanalyse zumeist verwertbare.(フロイト『性理論三篇』第三篇、1905年、1915年註) |
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以上、フロイトにおいて「リアルな欲動=マゾヒズム=母=トラウマ=受動性」であり、これがラカンの現実界の享楽。実に簡潔明瞭版だ。どこをどうひっくり返しもそうなることがわかるだろ。 人はみなマゾヒストなんだよ、少なくとも乳幼児のときは。母に対して受動的立場に置かれるのだから。
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こうなってなかったらまだ修行が足りないじゃないかね、 |
母として[quoad matrem]、すなわち《女なるもの》は、性関係において、母としてのみ機能する[…quoad matrem, c'est-à-dire que « la femme » n'entrera en fonction dans le rapport sexuel qu'en tant que « la mère »](Lacan, S20, 09 Janvier 1973) |
男は女に興味などない、もし母がなかったら。[un homme soit d'aucune façon intéressé par une femme s'il n'a eu une mère.] (Lacan, Conférences aux U.S.A, 1975) |
マゾヒズムはリビドーの固着ーー事実上、母への固着ーーに関わり、その固着への退行があるんだ。 |
無意識的なリビドーの固着は性欲動のマゾヒズム的要素となる[die unbewußte Fixierung der Libido …vermittels der masochistischen Komponente des Sexualtriebes](フロイト『性理論三篇』第一篇 , 1905年) |
おそらく、幼児期の母への固着の直接的な不変の継続がある[Diese war wahrscheinlich die direkte, unverwandelte Fortsetzung einer infantilen Fixierung an die Mutter. ](フロイト『女性同性愛の一事例の心的成因について』1920年) |
前エディプス期の固着への退行はとても頻繁に起こる[Regressionen zu den Fixierungen jener präödipalen Phasen ereignen sich sehr häufig; ](フロイト『続精神分析入門』第33講、1933年) |
この享楽の固着、つまりマゾヒズムの固着の反復がヒトのサガだね、少なくともフロイトラカン派的には。 |
フロイトは、幼児期の享楽の固着の反復を発見したのである[Freud l'a découvert…une répétition de la fixation infantile de jouissance]. (J.-A. MILLER, LES US DU LAPS -22/03/2000) |
僕なんかある年齢以降はほとんど常に退行してるけどね、少なくとも30代半ば?ぐらいからは。