享楽は愛だよ。ただし現実界の愛であって、象徴界や想像界の愛ではない。以下、簡単に確認しておこう。
前回示したように、フロイトにおいてリビドーは愛である。
リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギーをリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。 |
われわれが愛と名づけるものの核心となっているのは、ふつう恋愛とよばれるもの、詩人が歌い上げるもの、つまり性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]を目標とする性愛 [Geschlechtsliebe]であることは当然である。しかしわれわれは、ふだん愛の名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛[Selbstliebe]、他方では両親や子供の愛情、友情、普遍的な人類愛[Menschenliebe]を切り捨てはしないし、また具体的な対象や抽象的な理念への献身をも切り離しはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年) |
ここで現代ラカン派の区分けを示す。「リビドーの三相 =愛の三相」である。
◾️リビドーの三相 [Troi avatars de la libido] |
①象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー。 ②想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー ③現実界の審級にある享楽としてのリビドー |
–libido dans lê resistre de l'imaginaire. … la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet. –libido en fonction du registe du symbolique. …à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique –la libido en tant que iouissance oui est du reeiste du réel |
(Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995) |
◾️愛の三相 |
愛には三相がある。象徴界的相、想像界的相、現実界的相である[Les trois dimensions de l'amour : La dimension symbolique, La dimension imaginaire, La dimension réelle] |
①欲望の相:愛される対象はファルスの意味作用をもつ(象徴界) ②愛の要求の相:愛することは、愛されることを要求する(想像界) ③愛が享楽・欲動と関係する相(現実界) |
– la dimension du désir : l'objet aimé doit avoir la signification du phallus – la dimension amour demande : aimer, c'est demander d'être aimé – la dimension où l'amour est corrélé à la jouissance, à la pulsion. |
(Bernard Porcheret, LE RESSORT DE L'AMOUR, 2016) |
簡潔に補足する。
①の象徴界的愛(欲望)におけるファルスの意味作用とは何よりもまず言語化である。 |
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ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. ](ラカン, S18, 09 Juin 1971) |
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978) |
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欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage] (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011) |
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享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999) |
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ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011) |
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②の想像界的愛(ナルシシズム)における愛の要求(愛することは、愛されることを要求する)とは、ラカンが繰り返し示している通り。 |
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愛することは、本質的に、愛されたいということである[l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. ](Lacan, S11, 17 Juin 1964) |
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ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…l'amour c'est le narcissisme] (Lacan, S15, 10 Janvier 1968) |
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愛はその本質においてナルシシズム的である[l'amour dans son essence est narcissique] (Lacan, S20, 21 Novembre 1972) |
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③の現実界的愛における享楽=欲動は、前回比較的詳しく示したが、固着のこと。 |
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享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) |
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享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…) on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009) |
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この固着とは幼児期のリビドーの固着=愛の固着である。 |
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幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年) |
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初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年) |
原点にあるのはこの固着である、《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. 《(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)
ラカンは想像界と象徴界は現実界の穴に対する穴埋めともした、《我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel]》.(Lacan, S21, 19 Février 1974)、あるいは《愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.]》(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)
つまり享楽の現実界という「固着の穴」の穴埋めとして、欲望もナルシシズムもある。
別の言い方をすれば、「欲望の象徴界」も「ナルシシズムの想像界」も、「固着の現実界」の見せかけである。 |
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現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011) |
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モノは前回示した通り、固着のトラウマ(穴)にほかならない。そして見せかけの別名は嘘だな、《象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)。象徴界だけでなく想像界も嘘だ(想像界は象徴界に支配されているのだからーー《想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes… et structuré :… cette fonction symbolique]》(ラカン, S2, 29 Juin 1955))。
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※附記 注意しなくてはならないのは、巷で「享楽」という語が使われている場合、ときに「剰余享楽」の意味で使っていることだ。たとえば松本卓也くんの『享楽社会論』は明らかに「剰余享楽社会論」だ。 |
フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973) |
快の獲得とは欲動断念に伴う代理満足であり妥協の症状。 |
欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4 Triebverzicht、1939年) |
症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年) |
ラカンは剰余享楽は享楽の断念あるいは享楽の喪失に関わると言っているが、まさに上でフロイトが記している通り。 |
享楽の断念〔・・・〕言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽[la renonciation à la jouissance …Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours] (Lacan, S16, 13 Novembre 1968) |
剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する[Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance] (Lacan, S16, 15 Janvier 1969) |
もっとも嘘は必ずしも悪いことではない、死なないためには。 |
人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ? (プルースト「囚われの女」) |
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死は愛である [ la mort, c'est l'amour]. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969) |
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。 Le mensonge est essentiel à l'humanité. Il y joue peut-être un aussi grand rôle que la recherche du plaisir, et d'ailleurs, est commandé par cette recherche. On ment pour protéger son plaisir ou son honneur si la divulgation du plaisir est contraire à l'honneur. On ment toute sa vie, même surtout, peut-être seulement, à ceux qui nous aiment. Ceux-là seuls, en effet, nous font craindre pour notre plaisir et désirer leur estime. (プルースト「逃げさる女」) |
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ちなみに中井久夫はこう書いている。 |
もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。〔・・・〕 先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年) |
なお、固着がなぜ死の欲動に結びつくかは、「享楽の名について」を参照されたし。
究極的にはタントラの教えに収斂する。 |
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かくの如く私は聞いた。ある時、仏陀は一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra) |
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すなわち蓮華への固着が死の欲動を生む。
プルーストはこう記した、《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose ]》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)。この《なにか他のもの》とは何だろうか?
つまりは黒い夜である。
実はみな知っているのではないか、愛の起源を真に問い詰めたものなら?
フロイトはあたかもダ・ヴインチの手記をなぞるかのようにして次のように書いている。
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