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2024年7月14日日曜日

愛の三相ーー欲望の象徴界・ナルシシズムの想像界・享楽の現実界


享楽は愛だよ。ただし現実界の愛であって、象徴界や想像界の愛ではない。以下、簡単に確認しておこう。

 前回示したように、フロイトにおいてリビドーは愛である。

リビドー[Libido]は情動理論から得た言葉である。われわれは量的な大きさと見なされたーー今日なお測りがたいものであるがーーそのような欲動エネルギーをリビドーと呼んでいるが、それは愛[Liebe]と要約されるすべてのものに関係している。

われわれが愛と名づけるものの核心となっているのは、ふつう恋愛とよばれるもの、詩人が歌い上げるもの、つまり性的融合[geschlechtlichen Vereinigung]を目標とする性愛 [Geschlechtsliebe]であることは当然である。しかしわれわれは、ふだん愛の名を共有している別のもの、たとえば一方では自己愛[Selbstliebe]、他方では両親や子供の愛情、友情、普遍的な人類愛[Menschenliebe]を切り捨てはしないし、また具体的な対象や抽象的な理念への献身をも切り離しはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)



ここで現代ラカン派の区分けを示す。「リビドーの三相 =愛の三相」である。


◾️リビドーの三相 [Troi avatars de la libido]

①象徴界の審級の機能としてのリビドー 。欲望と換喩的意味とのあいだの等価性としてのリビドー。

②想像界の審級にあるリビドー 。ナルシシズムと対象関係の裏返しとしてリビドー

③現実界の審級にある享楽としてのリビドー

–libido dans lê resistre de l'imaginaire. … la réversibilité entre le narcissisme et la relation d'objet.

–libido en fonction du registe du symbolique. …à I'éqüvalence du désir et du sens, exaçtement du sens métonymique

–la libido en tant que iouissance oui est du reeiste du réel  

(Jacques-Alain Miller, STLET, 15 mars 1995)




◾️愛の三相

愛には三相がある。象徴界的相、想像界的相、現実界的相である[Les trois dimensions de l'amour :  La dimension symbolique, La dimension imaginaire, La dimension réelle]


①欲望の相:愛される対象はファルスの意味作用をもつ(象徴界)

②愛の要求の相:愛することは、愛されることを要求する(想像界)

③愛が享楽・欲動と関係する相(現実界)

– la dimension du désir : l'objet aimé doit avoir la signification du phallus 

– la dimension amour demande : aimer, c'est demander d'être aimé 

– la dimension où l'amour est corrélé à la jouissance, à la pulsion.

(Bernard Porcheret, LE RESSORT  DE L'AMOUR, 2016)



簡潔に補足する。


①の象徴界的愛(欲望)におけるファルスの意味作用とは何よりもまず言語化である。

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない[Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  ](ラカン, S18, 09 Juin 1971)

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage] (Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

欲望は言語に結びついている[le désir tient au langage]  (J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)


別の言い方をすれば享楽の身体のシニフィアン化である。

原主体[sujet primitif]…我々は今日、これを享楽の主体と呼ぼう[nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »]〔・・・〕この享楽の主体はシニフィアン化によってによって欲望の主体としての基礎を構築する[« le sujet de la jouissance »…la significantisation qui vient à se trouver constituer le fondement comme tel du « sujet désirant » ](ラカン, S10, 13 Mars 1963)

享楽は穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que …comme trou ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice)


享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)

ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる [Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance](J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)



②の想像界的愛(ナルシシズム)における愛の要求(愛することは、愛されることを要求する)とは、ラカンが繰り返し示している通り。

愛することは、本質的に、愛されたいということである[l'amour, c'est essentiellement vouloir être aimé. ](Lacan, S11, 17 Juin 1964)

ナルシシズムの相から来る愛以外は、どんな愛もない。愛はナルシシズムである[qu'il n'y a pas d'amour qui ne relève de cette dimension narcissique,…l'amour c'est le narcissisme]  (Lacan, S15, 10  Janvier  1968)

愛はその本質においてナルシシズム的である[l'amour dans son essence est narcissique] (Lacan, S20, 21 Novembre 1972)


このナルシシズム的愛の意味での愛はイマージュであり、つまり想像界である。

愛はイマージュである。それは、あなたの相手があなたに着せる、そしてあなたを装う自己イマージュであり、またそれがはぎ取られるときあなたを見捨てる自己イマージュである[l'amour ; soit de cette image, image de soi dont l'autre vous revêt et qui vous habille, et qui vous laisse quand vous en êtes dérobée],(ラカン、マグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS, AE193, 1965)


上にあるように自我自体、イマージュであり、つまり想像界である、《自我は想像界の効果である[Le moi, c'est un effet imaginaire.]》(J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse XX, Cours du 10 juin 2009)

フロイトの言い方ならこうなる。

自我は自分の家の主人ではない[Ich …, daß es nicht einmal Herr ist im eigenen Hause](フロイト『精神分析入門』第18講、1917年)

自我はエスの組織化された部分である[ das Ich ist eben der organisierte Anteil des Es](フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)




③の現実界的愛における享楽=欲動は、前回比較的詳しく示したが、固着のこと。

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. ](J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)

享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation (…)  on y revient toujours.] (J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)


この固着とは幼児期のリビドーの固着=愛の固着である。

幼児期のリビドーの固着[infantilen Fixierung der Libido]( フロイト『性理論三篇』1905年)

初期幼児期の愛の固着[frühinfantiler Liebesfixierungen.](フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)



原点にあるのはこの固着である、《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. 《(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011)


ラカンは想像界と象徴界は現実界の穴に対する穴埋めともした、《我々はみな現実界のなかの穴を穴埋めするために何かを発明する[tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel]》.(Lacan, S21, 19 Février 1974)、あるいは《愛は穴を穴埋めする[l'amour bouche le trou.]》(Lacan, S21, 18 Décembre 1973)



つまり享楽の現実界という「固着の穴」の穴埋めとして、欲望もナルシシズムもある。


別の言い方をすれば、「欲望の象徴界」も「ナルシシズムの想像界」も、「固着の現実界」の見せかけである。

現実界は、象徴界と想像界を見せかけの地位に押し戻す。そしてこの現実界はドイツ語のモノdas Dingによって示される。この語をラカンは欲動として示した[le réel repousse le symbolique et l'imaginaire dans le statut de semblant, ce réel alors apparaît indexé par le mot allemand, …indexé par le mot de das Ding, la chose. Référence par quoi Lacan indiquait la pulsion. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 19/1/2011)


モノは前回示した通り、固着のトラウマ(穴)にほかならない。そして見せかけの別名は嘘だな、《象徴界は厳密に嘘である[le symbolique, précisément c'est le mensonge.](J.-A. MILLER, Le Reel Dans L'expérience Psychanalytique. 2/12/98)。象徴界だけでなく想像界も嘘だ(想像界は象徴界に支配されているのだからーー《想像界、自我はその形式のひとつだが、象徴界の機能によって構造化されている[la imaginaire …dont le moi est une des formes…  et structuré :… cette fonction symbolique]》(ラカン, S2, 29 Juin 1955))。



前回掲げたピエール=ジル・ゲガーンーー彼は事実上、ミレール派(フロイト大義派)においてエリック・ロランの次のナンバースリーじゃないかねーーの実に簡潔明瞭な固着の穴の記述を再掲しておこう。

ラカンが導入した身体はフロイトが固着と呼んだものによって徴付けられる。リビドーの固着あるいは欲動の固着である。最終的に、固着が身体の物質性としての享楽の実体のなかに穴を為す。固着が無意識のリアルな穴を身体に穿つ。このリアルな穴は閉じられることはない。ラカンは結び目のトポロジーにてそれを示すことになる。要するに、無意識は治療されない。

le corps que Lacan introduit est…un corps marqué par ce que Freud appelait la fixation, fixation de la libido ou fixation de la pulsion. Une fixation qui finalement fait trou dans la substance jouissance qu'est le corps matériel, qui y creuse le trou réel de l'inconscient, celui qui ne se referme pas et que Lacan montrera avec sa topologie des nœuds. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas. En bref, de l'inconscient on ne guérit pas

(ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, ON NE GUÉRIT PAS DE L'INCONSCIENT, 2015)



ところでフロイトはリビドーは不安と関係があると言ったが、この不安はトラウマかつ喪失のこと。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


これが、ラカンが次のように言ったことである。


リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


ーー単純に先のフロイトの言い換えであり、この穴が固着のトラウマーー《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)ーーにほかならない。


以上、ラカンの享楽はフロイトの愛の固着(リビドーの固着)以外の何ものでもない。


……………………


※附記


注意しなくてはならないのは、巷で「享楽」という語が使われている場合、ときに「剰余享楽」の意味で使っていることだ。たとえば松本卓也くんの『享楽社会論』は明らかに「剰余享楽社会論」だ。


フロイトの快の獲得[Lustgewinn]、それはまったく明瞭に、私の「剰余享楽 」である。[Lustgewinn… à savoir, tout simplement mon « plus-de jouir ». ](Lacan, S21, 20 Novembre 1973)


快の獲得とは欲動断念に伴う代理満足であり妥協の症状。

欲動断念は、避け難い不快な結果のほかに、自我に、ひとつの快の獲得を、言うならば代理満足をも齎す[der Triebverzicht…Er bringt außer der unvermeidlichen Unlustfolge dem Ich auch einen Lustgewinn, eine Ersatzbefriedigung gleichsam.](フロイト『モーセと一神教』3.2.4  Triebverzicht、1939年)

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している[die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs.] (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)


ラカンは剰余享楽は享楽の断念あるいは享楽の喪失に関わると言っているが、まさに上でフロイトが記している通り。

享楽の断念〔・・・〕言説の影響下でのこの断念の機能としての剰余享楽[la renonciation à la jouissance …Le plus-de-jouir comme fonction de cette renonciation sous l'effet du discours] (Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余享楽は享楽に反応するのではなく享楽の喪失に反応する[Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance] (Lacan, S16, 15  Janvier  1969)


剰余享楽は《言説の影響下》とあることに注意しておこう、《言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ]》(Lacan, S19, 21 Juin 1972)先に示したように見せかけの別名は嘘である。これがフロイトの代理満足=妥協の症状のいくらか強い言い方である。剰余享楽は嘘と言いうるのである。

もっとも嘘は必ずしも悪いことではない、死なないためには。


人はどうして生きたいとねがう勇気がもてようか、どうして死なないための力をふるいたたせることができようか? 相手がつくうそによってしか愛がかきたてられない世界、われわれを苦しめた相手にその苦しみを鎮めてもらいたいという欲求のなかにしか愛が存在しない世界、そういう世界のなかで。comment a-t-on le courage de souhaiter vivre, comment peut- on faire un mouvement pour se préserver de la mort, dans un monde où l'amour n'est provoqué que par le mensonge et consiste seulement dans notre besoin de voir nos souffrances apaisées par l'être qui nous a fait souffrir ?   (プルースト「囚われの女」)


死は愛である [ la mort, c'est l'amour]. (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n'est rien d'autre que  ce qu'on appelle la jouissance. ](Lacan, S17, 26 Novembre 1969)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel … la mort, dont c'est  le fondement de Réel] (Lacan, S23, 16 Mars 1976)



うそは人間において本質的なものである。うそは人間においておそらく快楽の追及とおなじほど大きな役割を演じているだろう、しかも、うそは快楽の追及に従属するのである。人は自分の快楽をまもるためにうそをつく。人は生涯にわたってうそをつく、人は自分を愛してくれる人たちにさえうそをつく、そういう人たちであればこそとりわけうそをつく、おそらくそういう人たちにだけうそをつくだろう。われわれにとっては、正直いって、そういう人たちだけが、自分の快楽をまもるためにおそろしいのであり、しかもそういう人たちだけから、尊敬を受けることが望ましいのである。

Le mensonge est essentiel à l'humanité. Il y joue peut-être un aussi grand rôle que la recherche du plaisir, et d'ailleurs, est commandé par cette recherche. On ment pour protéger son plaisir ou son honneur si la divulgation du plaisir est contraire à l'honneur. On ment toute sa vie, même surtout, peut-être seulement, à ceux qui nous aiment. Ceux-là seuls, en effet, nous font craindre pour notre plaisir et désirer leur estime. (プルースト「逃げさる女」)



すなわち享楽断念に伴う妥協の症状(代理満足)としての剰余享楽は人間において本質的なものである、これは冗談ではない。

ちなみに中井久夫はこう書いている。

もしフロイトが存在しなかったとすれば、二十世紀の精神医学はどういう精神医学になっていたでしょうかね」と私は問うた。問うた相手はアンリ・F・エランベルジュ先生。〔・・・〕


先生は少し考えてから答えられた。「おそらくプルースト的な精神医学になっただろうね、あるいはウィリアム・ジェームスか」(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)



なお、固着がなぜ死の欲動に結びつくかは、「享楽の名について」を参照されたし。


究極的にはタントラの教えに収斂する。

かくの如く私は聞いた。ある時、仏陀は一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra


すなわち蓮華への固着が死の欲動を生む。





なおプルーストのマドレーヌは女陰の隠喩でありうる。


溝の入った帆立貝の貝殻のなかに鋳込まれたかにみえる〈プチット・マドレーヌ〉と呼ばれるずんぐりして丸くふくらんだあのお菓子の一つ[un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblent avoir été moulés dans la valve rainurée d'une coquille de Saint-Jacques] (プルースト「スワン家のほうへ」)

この描写は女性器のイマージュ[ image du sexe féminin」を連想させる。ずんぐり、丸くふくらんだ、鋳込まれた貝殻 = 弁、溝の入った[court, dodu, moulé, valve, rainure, coquille]と、ひとつとして女性器を思い起こさせない言葉はない。

その先でプルーストはもう一度この菓子の外観を叙べる。

厳格で敬度な襞の下の、あまりにぼってりと官能的な、お菓子でつくった小さな貝の身[petit coquillage de pâtisserie, si grassement sensuel sous son plissage sévère et dévot ](プルースト「スワン家のほうへ」)

〔・・・〕

ショーソン(パイ)は内側から夢想するかぎりでの母胎を、マドレーヌは外側から夢想する母胎を表現している[le chausson représente le ventre maternel, tel qu'on le rêve dans son intérieur ; la madeleine, dans son extérieur]。(フィリップ・ルジェンヌ「エクリチュールと性」Philippe Lejeune, L'Ecriture et Sexualité, 1970



プルーストはこう記した、《ある人へのもっとも排他的な愛は、常になにか他のものへの愛である[L’amour le plus exclusif pour une personne est toujours l'amour d’autre chose ]》(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」)。この《なにか他のもの》とは何だろうか?


ひょっとしてブラックホールではなかろうか?

口の中にマドレーヌをころがす話者、その繰り返し、無意志的回想のブラックホール[Le narrateur mâchouille sa madeleine : redondance, trou noir du souvenir involontaire]。どうやって彼はそこから脱け出せるだろうか。結局これは脱出すべきもの、 逃れるべきものなのだ[Avant tout, c'est quelque chose dont il faut sortir, à quoi il faut échapper]。プルーストはそのことをよく知っていた。 彼を注釈する者たちにはもう理解できないことだが。しかし、そこから彼は芸術によって脱け出すだろう、ひたすら芸術によって。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』「零年ーー顔貌性」1980年)

ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である。あるいは彼が触ると指のあいだから砂のように滑り落ちるものである。[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir, ou bien se dérobe en flux de sable à son étreinte ](Lacan, Jeunesse de Gide ou la lettre et le désir, Écrits 750, 1958)



つまりは黒い夜である。


愛するという感情は、どのように訪れるのかとあなたは尋ねる。彼女は答える、「おそらく宇宙のロジックの突然の裂け目から」。彼女は言う、「たとえばひとつの間違いから」。 彼女は言う、「けっして欲することからではないわ」。

Vous demandez comment le sentiment d'aimer pourrait survenir. Elle vous répond : Peut-être d'une faille soudaine dans la logique de l'univers. Elle dit : Par exemple d'une erreur. Elle dit : jamais d'un vouloir. Vous demandez : 

あなたは尋ねる、「愛するという感情はまだほかのものからも訪れるのだろうか」と。あなたは彼女に言ってくれるように懇願する。彼女は言う、「すべてから、夜の鳥が飛ぶことから、眠りから、眠りの夢から、死の接近から、ひとつの言葉から、ひとつの犯罪から、自己から、自分自身から、突然に、どうしてだかわからずに」。

Le sentiment d'aimer pourrait-il survenir d'autres choses encore ? Vous la suppliez de dire. Elle dit : de tout, d'un vol d'oiseaux de nuit, d'un sommeil, d'un rêve de sommeil, de l'approche de la mort, d'un mot, d'un crime, de soi, de soi-même, soudain sans savoir comment. 


彼女は言う、「見て」。彼女は脚を開き、そして大きく開かれた彼女の脚のあいだの窪みにあなたはとうとう黒い夜を見る。あなたは言う、「そこだった、黒い夜[la nuit noire]、それはそこだ」

Elle dit : Regardez. Elle ouvre ses jambes et dans le creux de ses jambes écartées vous voyez enfin la nuit noire. Vous dites : C'était là, la nuit noire, c'est là.(マルグリット・デュラス『死の病 La maladie de la mort』1981年)


実はみな知っているのではないか、愛の起源を真に問い詰めたものなら?



我々の往時の状態回帰への希望と憧憬は、蛾が光に駆り立てられるのと同様である。人は自己破壊憧憬をもっており、これこそ我々の本源的憧憬である。

la speranza e 'l desiderio del ripatriarsi o ritornare nel primo chaos, fa a similitudine della farfalla a lume… desidera la sua disfazione; ma questo desiderio ène in quella quintessenza spirito degli elementi(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』)

より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)

我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)



フロイトはあたかもダ・ヴインチの手記をなぞるかのようにして次のように書いている。


以前の状態に回帰しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である[ ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen](フロイト『快原理の彼岸』第7章、1920年)

人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)

母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年)