若者全般へのメッセージですが、世間で言われていることの大半は嘘だと思った方が良い。それが嘘だと自分は示し得るという自信を持ってほしい。たとえ今は評価されなくとも、世界には自分を分かってくれる人が絶対にいると信じて、世界に働き掛けていくことが重要だと思います。(蓮實重彦インタビュー、東大新聞 2017年1月1日号)
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たとえば「超自我」概念は誰か「優秀な」若いもんがしっかり書いといたほうがいいんじゃないかね、嘘だらけだから。柄谷行人の『憲法の無意識』における憲法九条超自我論に端を発して、東浩紀やら宮台真司やらがしきりに超自我概念に触れるようになっているが、どれもこれも誤謬だらけだから。柄谷はそのなかではずっとまともだがやはり間違いがある。
特に日本は一神教ではないからな、ドイツやフランスなどの一神教国の超自我解釈は役に立たない部分が多いんだよ。
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かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。〔・・・〕
明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」2003年 『時のしずく』所収)
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一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)
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アニミズムは日本人一般の身体に染みついているらしい。(中井久夫「日本人の宗教」1985年『記憶の肖像』所収)
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ここで中井久夫が言っている社会的規範を代表する「超自我」としての父、あるいは言語による経典が絶対の世界とはエディプス的超自我だがね、
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エディプスコンプレクスの代理となる超自我[das Über-Ich, der Ersatz des Ödipuskomplexes](フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
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前回示したようにそうでない前エディプス的超自我があるんだよ。
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「エディプスなき神経症概念」……私はそれを母なる超自我と呼ぶ。…問いがある。父なる超自我の背後にこの母なる超自我がないだろうか? 神経症においての父なる超自我よりも、さらにいっそう要求し、さらにいっそう圧制的、さらにいっそう破壊的、さらにいっそう執着的な母なる超自我が。
Cette notion de la névrose sans Œdipe,[…] ce qu'on a appellé le surmoi maternel : […]- on posait la question : est-ce qu'il n'y a pas, derrière le sur-moi paternel, ce surmoi maternel encore plus exigeant, encore plus opprimant, encore plus ravageant, encore plus insistant, dans la névrose, que le surmoi paternel ? (Lacan, S5, 15 Janvier 1958)
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非一神教国日本で肝心なのは、この母なる超自我だ。
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一般に現代ラカン派では次のように語られることが多い。
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普段は、エディプス的父なる超自我(フロイトの超自我)によって飼い馴らされている母が、前エディプス的超自我(ラカンとクラインの超自我)の場に陥ち入るという仮説[l'hypothèse que suite à …la mère normalement pacifiée par le Surmoi paternel œdipien (le Surmoi Freudien), basculerait dans un positionnement surmoïque pré-œdipien (le Surmoi Lacanien et Kleinien). ]
(ROSSI GIOVANNI, Surmoi et destin du Surmoi chez la mère de l'enfant en situation de handicap mental, 2013)
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これ自体、いくらか問題ありだが、ーーというのは前回示したようにフロイトにも前エディプス的超自我がしっかりあるから。つまりフロイト自身にエディプス的父なる超自我と前エディプス的母なる超自我がある。だが日本での超自我言説はこの区分がまったくできていない。
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で、前エディプス的超自我は、現在では日本だけの問題ではなく、学園紛争を機縁にして世界の問題なんだよ。
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父の蒸発 [évaporation du père](ラカン「父についての覚書 Note sur le Père」1968年)
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エディプスの失墜[déclin de l'Œdipe](Lacan, S18, 16 Juin 1971)
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「学園紛争は何であったか」ということは精神科医の間でひそかに論じられつづけてきた。1960年代から70年代にかけて、世界同時的に起こったということが、もっとも説明を要する点であった。フランス、アメリカ、日本、中国という、別個の社会において起こったのである。〔・・・〕
精神分析医の多くは、鍵は「父」という言葉だと答えるだろう。〔・・・〕「父」は見えなくなった。フーコーのいう「主体の消滅」、ラカンにおける「父の名」「ファルス」の虚偽性が特にこの世代の共感を生んだのは偶然でなかろう。(中井久夫「学園紛争は何であったのか」1995年『家族の深淵』所収)
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これは別の言葉で言えば家父長制終焉ということだ。
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家父長制とファルス中心主義は、原初の全能的母権制(家母長制)の青白い反影にすぎない[the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system] (ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE, Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE, 1998)
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今日、私たちは家父長制の終焉を体験している。ラカンは、それが良い方向には向かわないと予言した[Aujourd'hui, nous vivons véritablement la sor tie de cet ordre patriarcal. Lacan prédisait que ce ne serait pas pour le meilleur. ]。〔・・・〕
私たちは最悪の時代に突入したように見える。もちろん、父の時代(家父長制の時代)は輝かしいものではなかった〔・・・〕。しかしこの秩序がなければ、私たちはまったき方向感覚喪失の時代に入らないという保証はない[Il me semble que (…) nous sommes entrés dans l'époque du pire - pire que le père. Cer tes, l'époque du père (patriarcat) n'est pas glorieuse, (…) Mais rien ne garantit que sans cet ordre, nous n'entrions pas dans une période de désorientation totale](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, “Conversation d'actualité avec l'École espagnole du Champ freudien, 2 mai 2021)
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どうだい、そこの若いお嬢さん? エディプス的超自我に片寄った日本言論界の言説を罵倒しつつ、博士論文やらを書いてみたら。
ここで注意せねばならないのは、ラカンは家父長制の復権を願っていたわけではないことだ。 | 人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで[le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
これは、支配の論理に陥りがちなエディプス的超自我は迂回すべきだが、父の機能は是非とも必要だということである。 |
中井久夫は「母子の時間、父子の時間」(2003年)にて、母なるオルギア(距離のない狂宴)と父なるレリギオ(つつしみ)を対比させているが[参照]、ラカンの父の機能とはこの父なるレリギオに近似する。そして前エディプス的超自我の時代とは母なるオルギアという距離のない狂宴の時代であり、これが現在、最悪の時代を齎している。
中井久夫は天才宗教史学者カール・ケレーニイの名を出しつつ、この「レリギオ」に比較的早い時期から触れている。
| ケレーニーはアイドースをローマのレリギオ(religio 慎しみ)とつながる古代ギリシアの最重要な宗教的感性としている。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年) |
この父なるレリギオの別の言い方は《個を越えた良性の権威へのつながりの感覚》(中井久夫「「踏み越え」について」2003年『徴候・記憶・外傷』所収)であり、この権威はアーレントの云う権威に近似する。 | 権威とは、人びとが自由を保持するための服従を意味する[Authority implies an obedience in which men retain their freedom](ハンナ・アーレント『権威とは何か』1954年) |
………………
以下、簡単にエディプス的超自我と前エディプス的超自我を区分すれば次の通り。
ラカン語彙ではエディプス的父は象徴界であり、言語である。
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父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 )
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象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)
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つまり《父の名は象徴界にあり、現実界にはない[le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel]》( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)
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あるいは父の名は大他者にシニフィアンだ。
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父の名は、シニフィアンの場としての、大他者のなかのシニフィアンであり、法の場としての大他者のシニフィアンである[Nom-du-Père - c'est-à-dire du signifiant qui dans l'Autre, en tant que lieu du signifiant, est le signifiant de l'Autre en tant que lieu de la loi »](Lacan, É583, 1958年)
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見せかけはシニフィアン自体だ! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! ](Lacan, S18, 13 Janvier 1971)
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つまり《ラカンが、フロイトのエディプスの形式化から抽出した「父の名」自体、見せかけに位置づけられる[Le Nom-du-Père que Lacan avait extrait de sa formalisation de l'Œdipe freudien est lui-même situé comme semblant]》(ジャン=ルイ・ゴー Jean-Louis Gault, Hommes et femmes selon Lacan, 2019)
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なんの見せかけなのか。現実界の母なるモノの見せかけである。
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne …ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976)
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母なるモノ、母というモノ、これがフロイトのモノの場を占める[la Chose maternelle, de la mère, en tant qu'elle occupe la place de cette Chose, de das Ding. ](Lacan, S7, 16 Décembre 195
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このモノの核は母の身体である、《モノの中心的場に置かれるものは、母の神秘的身体である[à avoir mis à la place centrale de das Ding le corps mythique de la mère,]》 (Lacan, S7, 20 Janvier 1960 )
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そして大他者としての父は欲望に関わり、モノは享楽、つまり欲動に関わる。
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欲望は大他者に由来する。そして享楽はモノの側にある[le désir vient de l'Autre, et la jouissance est du côté de la Chose](Lacan, DU « Trieb» DE FREUD, E853, 1964年)
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ーー《欲動は、ラカンが享楽の名を与えたものである[pulsions …à quoi Lacan a donné le nom de jouissance.]》(J. -A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 11/05/2011)
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現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ».](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)
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そしてフロイトの自我はラカンの大他者の言語に結びついている。
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フロイトの自我と快原理、そしてラカンの大他者のあいだには結びつきがある[il y a une connexion entre le moi freudien, le principe du plaisir et le grand Autre lacanien] (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 17/12/97)
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大他者とは父の名の効果としての言語自体である [grand A…c'est que le langage comme tel a l'effet du Nom-du-père.](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 14/1/98)
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ーーこのジャック=アラン・ミレールの言明は、ラカンにおいて自我を想像界の審級としたが、想像界は象徴界に支配されているゆえの注釈である(他方、フロイトは自我と言語を厳密には区分していない)。
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フロイトにとって自我は前意識、エスは無意識だ(ラカンの現実界はもちろんフロイトのエスにほかならない)。
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精神分析は無意識をさらに区別し、前意識と本来の無意識に分離するようになった[ die Psychoanalyse dazu gekommen ist, das von ihr anerkannte Unbewußte noch zu gliedern, es in ein Vorbewußtes und in ein eigentlich Unbewußtes zu zerlegen. ](フロイト『自己を語る』第3章、1925年)
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私は、知覚体系Wに由来する本質ーーそれはまず前意識的であるーーを自我と名づけ、精神の他の部分ーーそれは無意識的であるようにふるまうーーをエスと名づけるように提案する。
Ich schlage vor, ihr Rechnung zu tragen, indem wir das vom System W ausgehende Wesen, das zunächst vbw ist, das Ich heißen, das andere Psychische aber, in welches es sich fortsetzt und das sich wie ubw verhält, …das Es.(フロイト『自我とエス』第2章、1923年)
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言語の大他者に由来するラカンの欲望(フロイトの願望)は、前意識の審級にある。
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無意識の欲望は前意識に占拠されている[le désir inconscient envahit le pré-conscient](Solal Rabinovitch, La connexion freudienne du désir à la pensée, 2017)
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フロイト用語の願望をわれわれは欲望と翻訳する[Wunsch, qui est le terme freudien que nous traduisons par désir.](J.-A. Miller, MÈREFEMME, 2016)
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そしてーー繰り返せばーー、エスの欲動こそ本来の無意識である。
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現実界は、フロイトが「無意識」と「欲動」と呼んだものである[le réel à la fois de ce que Freud a appelé « inconscient » et « pulsion ».](Jacques-Alain Miller, HABEAS CORPUS, avril 2016)
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以上、簡単にまとめれば次の通り。
いま比較的わかりやすいラカン派の説明を掲げたが、この区分はフロイトにすべてある。もっともフロイトは試行錯誤していての上の結論なので、その過程を簡単には掲げ辛いが。
で、最後に一番まともな柄谷行人だけを馬鹿にしとくよ
私は日本の戦後憲法九条を、一種の「超自我」として見るべきだと考えます。(柄谷行人『憲法の無意識』2016年)
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憲法九条は基本的にはエディプス的超自我だよ、言語なんだから。つまり無意識ではなく前意識だ。
したがって次の発言は誤謬としか言いようがないね
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◾️柄谷行人「憲法9条の今日的意義」、2016年1月23日講演
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無意識というと一般に、意識されていないという程度の意味で理解されています。あるいは潜在意識と同一視されています。たとえば宣伝などで無意識、潜在意識に働きかけるサブリミナル効果を狙うことがあります。先ほどもいわれたように何べんも繰り返していると人はだんだんと受けとるようになるんだとかそういう意味です。しかし、フロイトはそのようなものを前意識と呼んで、無意識とは区別したんです。ただフロイトがいう無意識にも二つの種類があります。一つはエスというもので、「それ」ということで、名づけようのないものを指しているわけです。もう一つは超自我です。私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです。このような無意識の超自我は、意識とは異なって、説得や宣伝によって操作することができないものです。
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要するに憲法9条はエディプス的超自我であり前意識であるゆえ説得や宣伝で変えられる。ここは肝心なところだな。
もっともさすがに柄谷である、前エディプス的超自我の示唆がある。
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戦後憲法一条と九条の先行形態として見いだすべきものは、明治憲法ではなく、徳川の国制(憲法)です。先にいったように、戦後憲法は明治憲法における改正手続きに従い帝国議会で承認されたということになっていますが、そのような連続性は仮構であって、本当は、そこに切断があります。それは「八月革命」と呼ぶべき変化なのです。特に、象徴天皇をいう憲法一条と、戦争放棄をいう九条は明治憲法にないものです。が、それは日本史においてまったく新しいものだとはいえない。ある意味で、明治以前のものへの回帰なのです。(柄谷行人著『憲法の無意識』)
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要するに江戸時代の天皇だな、これがーー柄谷の思考を借りに受け入れるならーー本来の無意識だ。したがってこれは説得や宣伝では変えられない。
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◾️インタビュー・柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」2016(「文学界」7月号)
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編集部:「憲法の無意識」で驚いたのは、憲法一条(象徴天皇制)と九条との密接な関係を示されたことです。
柄谷:マッカーサーは天皇制の維持を重視していたが、ソ連や連合国だけでなくアメリカ国内でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。彼らを説得する切り札として戦争放棄条項を必要とした。
今は(国民の無意識に根を下ろしている)九条の方が重要であるが、その有力な後援者が一条の(今上)天皇・皇后である。
編集部:・・・つまり、天皇が国民の無意識を代弁している・・・。
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この柄谷の天皇の捉え方は晩年の吉本隆明のセリーじゃないかな、
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天皇を政治的な立場から外せば天皇制という仕組みがなくなると単純に思っているひとがいるが、僕はそうは思っていない。僕らが縁日で金魚すくいをやっている限りは、神道の名残は残ると思っています。それと同じように天皇の名残も残り続けるのです。縁日に行って神社に露店が無くなったときに初めて、日本の神道がなくなるように原始からの何層もの積み重ねが現代の日本を形作っているのです。(吉本隆明「真贋」2007年)
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何はともあれ当面次の区分はきわめて重要だ。繰り返せば、柄谷の思考を「仮に」受け入れるなら。
あとはエディプス的超自我の審級にある憲法九条がいかに前エディプス的超自我の天皇制と密着しているか否だよ。もしこの二種類の超自我がしっかり結婚しているなら、憲法九条は変え難いし、そうでないなら簡単に変えられてしまう。
先に引用したインタビュー発言を長く引用するなら、次の箇所が核心だろうよ、柄谷の超自我論の。
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◾️柄谷行人「改憲を許さない日本人の無意識」文学界インタビュー 2016年7月号
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ーー『憲法の無意識』のI章とⅡ章で驚いたのは、九条と一条との密接な関係を示されたことです。「九条を守ることが、一条を守ることになる」と書かれています。
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柄谷) 近年、天皇·皇后の発言等々に感銘を受けていて、これはどういうことだろうかと考えたんです。憲法の制定過程を見ると、マッカーサーは何よりも天皇制の維持を重視していて、九条はそのためのいわば付録に過ぎなかったことがわかる。実際、朝鮮戦争の勃発に際しマッカーサーは日本政府に再軍備を要請し、九条の改定を迫っています。九条は彼にとってその程度のものだったということです。
マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治に成功しなければいけない。そのために天皇制を象徴天皇として存続きせることが必要だった。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連、連合軍諸国だけでなく、アメリカの世論でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中で、あえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得させる切り札として必要だった。だから、最初は重要なのは一条で、九条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。九条のほうが重要である。しかも九条の有力な後援者が、一条で規定されている天皇·皇后である。その意味で、地位が逆転しているのですが、一条と九条のつながりは消えていません。
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ーー九条が日本人の無意識に深く根を下ろしている構造を本書は論じていますが、九条が一条と強く結びついているとすれば、つまり天皇が国民の無意識を代弁しているということでしょうか?
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柄谷) そういう感じですね。その場合、天皇といっても、昭和天皇では駄目なんです。湾岸戦争勃発の前、八九年に昭和天皇が逝去したのは、ソ連圏の崩壊と同時期です。米ソ冷戦の終わりと昭和の終わりとが同時にあった。それぞれは予測できることだったとはいえ、両方の終焉を同時に迎えたというのは日本人にとってやはり大きなことですよ。僕がその頃『終焉をめぐって』(1990)を書いたのはそのためです。「歴史の終焉」という言葉が流行していた時期ですが、日本人にとっては、昭和の終焉が大きな意味をもったと思います。
昭和天皇が逝去し、明仁天皇は即位式で、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い………」と述べた。
この発言は宮内庁の用意した原文に自らが加筆したものだと言われています。「憲法を遵守し」というのは、ちょっと変ではないですか? 自らを規定する一条のことをわざわざ遵守すると言うだろうか。象徴天皇の範囲にとどまるという意志表明であるといえなくはないけど、僕はやはり、これは九条のことだと思いましたね。そして、その後まもなく、湾岸戦争があり、九条が争点となった。一条と九条に密接な関係があるという考えがより強まりました。
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僕は強い九条維持派だからな、だから天皇制擁護派だよ。ワカルカイ? 巷間の天皇制反対かつ九条擁護の寝言派とはわけが違うんだ。
そして最も重要なのは先に示したレリギオの審級に天皇制があるか否かだ。そうでなかったら是非ともそこに格上げしてもらう必要がある。前エディプス的超自我でもなくエディプス的超自我でもない慎みの超自我に。
先の柄谷文学界インタビュー発言の《近年、天皇·皇后の発言等々に感銘を受けて》云々は、何よりもまず両者のレリギオのせいだろうよ、たぶんね。柄谷にも誤謬はあるが、巷間のチョロい評論家というのか批評家というのか学者というのかはいざ知らず、連中とは訳がちがう。正直、この点に関しては「敬愛する」加藤周一も大江健三郎もチョロいから日本の標準的インテリがこよなくチョロいのはまったくヤムエナイがね。
柄谷は『憲法の無意識』で、《戦後の憲法九条はいわば「徳川の平和」の高次元での回帰であった》と言っている。これは近著『力と交換様式』2022年)の記述に基づけば、普遍宗教の回帰を意味し、ここでの文脈では父なるレリギオの回帰である。
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